満屋先生のこと

前回皮膚科学会ではエイズの講演はとんとないようなことを書きましたが、近日開催された東京支部総会(千葉大学松江弘之教授 会頭)では、満屋裕明先生の特別講演がありました。これは聴かねばなるまいと思い、同時間に別会場で重なってしまった「ハンズオンセミナー プリックテストを極めよう」の講習予約を取り消して聴講しました。
こんなにも著名なノーベル賞クラスの先生のまたとない演者の講演のわりには広い会場は空席が目立ちました。しかし満屋先生の講演は聴衆に感銘をあたえるものでした。
      HIV感染症とAIDSに対する治療薬の研究開発ーーAIDS IS LOSINGーー

講演が終わってから満屋裕明とはどういう人でどのような経緯でAZTを発見したのか興味があり、調べていたら
      エイズ治療薬を発見した男 満屋裕明(文春文庫)堀田佳男
       『MIYSUYA–エイズ治療薬を発見した男』(旬報社)(1999年)の単行本を文庫化したもの
という本がネットでみつかり、読んでみました。この本は著者が1987年に米国NIHで満屋先生にインタビューを始めてから長きに亘って取材を重ねた本で研究開発の経緯、その周辺の社会的な、製薬会社の商売的な側面も書かれていて、講演で満屋先生が話された純粋に医学的な面と共に当日話されなかった先生の栄光と苦悩の歴史の一端を知ることのできる本でした。今回の講演とこの本をネタに知りえたことを物語風に書いてみたいと思います。
(満屋先生は多く出てきますので、満屋と書いて敬称は省略します。)
1950年 長崎県佐世保市 出身
1969年 熊本大学医学部 入学
1975年 熊本大学第2内科 入局 岸本 進 教授 免疫 老化が専門
共済組合中央病院、熊本大学で原発性免疫不全症の研究
1981年 岸本先生が阪大第3内科教授へ転任
1982年10月 岸本教授が米国NCI(国立ガン研究所)のトム・ウォルドマンに依頼し、その下のラボ・チーフのサミュエル・ブローダーを推薦され渡米。
1983年 成人T細胞白血病ウイルス(HTLV-1)が手にいるようになり、ウイルス感染で引き起こされる免疫不全の研究にシフトする。
1984年春 サミュエル・ブローダーからエイズの研究の打診。当時はウイルスが発見されたばかりでばたばたと患者の死亡が続き、誰もが研究を躊躇していた。同じNIHにウイルスを発見したギャロのラボがあり(実はフランスのモンタニエのラボからのウイルスと後に判明するのだが)簡単にウイルスを入手できた。
満屋はすでに熊本時代に成人T細胞白血病の研究、実験、臨床の経験があったこと(返り血を浴びても伝染しなかった)、エイズの診療に当たっていた医療人に伝染したということは聞いていなかったこと、T細胞のストックを持っていたこと、誰もがやらなければ現に蔓延しつつある「現代のペスト」ともいわれた病気に誰かが立ち向かわなければならないという使命感(少しの功名心)などが満屋を研究へと向かわせた。また妻の後押しも手伝ったという。
研究は順調だったわけではない。ボスは指示はするが、ラボのある13階には日に数回顔を出すだけ、事務員や研究員は感染を恐れて自分らの前での実験を拒否、夜間別棟のギャロのラボで実験をはじめる。ブローダーは数か月でこの研究から手を引こうかと満屋に打診するも満屋は続行。その頃満屋はヘルパーTリンパ球のクローンをもっており大量に培養・増殖できた。それを用いて抗ウイルス薬を探し出すシステムができないかと作業仮説を思案していたところだった。そしてリンパ球の挙動にも個体差があった。「金沢大学からきていた谷内江先生から採血して取り出したヘルパーTリンパ球がよく増えたんです。そしてエイズウイルスにかけるとよく死ぬことがわかった。というより谷内江先生の血液でないとうまくいかなかった。」
1984年7月 バイエル製薬が1920年に開発したツェツェバエによる眠り病の特効薬スラミンがマウスのレトロウイルスにも効果があることが分かっていた(1979)。それをヘルパーT細胞に感染させたHIVウイルスに投与したところ、試験管内でウイルス抑制効果があることを世界で初めて実証した。
残念ながらスラミンの臨床治験では効果がなく、肝腎機能異常のために打ち切りとなってしまった。
当時の製薬業界はエイズの感染を恐れて、また患者数が3000人程度だったためにうま味を感じずに積極的に治療薬の研究には乗り出してこなかった。
ウイルス治療薬の開発・研究に強い1社(B-W社)だけがブローダーの誘いに応じた。そして可能性のある薬剤を送ってきたが、会社に所有権があるために、その正体は明かされていなかった。
年末、それまで使用してきた谷内江明宏(やちえあきひろ、金沢大学から来ていた留学生)からとったヘルパーT細胞の増殖がにぶくなり、実験に支障をきたしつつあった。細胞そのものの老化と考えられた。ここで、成人型T細胞白血病ウイルスに感染させたヘルパーT細胞を使用してみた。その細胞は正常細胞より簡単にエイズウイルスに感染した。
それを使用することで、新たなT細胞の材料を見出した。その細胞に満屋は「ATH8」という名前を付けた。「A」は谷内江の頭文字、「T」はテタノストキソイド(破傷風毒素)、「H」はHTLV-1(成人T細胞白血病ウイルス)の頭文字からそれぞれ取った。「8」は8番目に得た細胞群を意味している。
ひとつの試験管内のヘルパーT細胞とHIVの比率は20万個対100万個、1:5が最適であった。満屋の実験方法ではこれらを混ぜて1週間程度培養すれば試験管の底のペレット(細胞集塊)の様子を肉眼で見るだけで、薬剤の効果が判定できる簡便かつ超速の優れものだった。
1985年2月、B-W社からコード名「S」という薬剤が送付されてきた。1週間後その薬剤を加えた試験管ではHIVを加えたT細胞が死なずに生きていた。同社は他の研究室にも薬剤を送付していたが、その効果は判定できずにいた。満屋のみが初めてその薬剤の効果を発見した。後にそれはアジドチミジン(AZT)という20年も前に抗がん剤として合成された古い薬であることが明らかにされた。有機化学者のジェローム・ホーウィッツがサケとニシンの精子から抽出したチミジン誘導体だったが、抗がん剤としては効き目なく日の目を見ないでいた薬剤であった。1978年同剤がマウスのレトロウイルスの増殖を阻止することが分かったていた。それで同社が送ってきたものだった。効果が分かったあとでも同社はウイルス感染を恐れて検体の受け取りを拒否し、そちらで実験するようにいった。
その後も満屋は第2、第3の薬剤を見出すべく、日本の生化学の教科書(山村雄一 著)を元にアイデアを考え続け、DNAチェーンターミネーター(ジデオキシヌクレオシド系)が効くのではないかと閃いたという。ddA, ddC, ddG, ddI, ddTを検討し始めた。
1985年7月 AZTの臨床治験がFDAで認可された。異例ともいえる超速の速さであった。いかにこの薬剤が切望されていたかが分かる。治験ではAZTの強い骨髄抑制などの副作用がみられたものの、偽薬との比較で明らかな死亡者数の差、免疫力回復の差がでた。FDAは24週の治験予定を16週で打ち切った。偽薬グループの死者は19名だったのに対し、AZT投与群の死亡者は1名のみであった。これ以上治験を続けるのは非人道的という結論だった。治験薬が効くという理由で臨床治験が中断された前例はなかった。
1985年10月 満屋 PNASにAZTの試験管内での抗HIV効果を報告。
1986年9月から翌年3月まで認可前にAZTが全米のエイズ患者に無料配布された。
1987年 B-Z社はAZTの認可により巨額の利益を見込んでいた。患者は4万人を越え、死者はすでに2万3千人に達していた。
同年3月AZTがFDAよりエイズ治療薬として認可された。薬価は高額で1年間服用すると1万ドルに達した。
FDAの会見ではブローダー、NCI, B-W社、FDA職員の名前を出して米国政府を賞賛したが満屋の名前は一切でなかった。
無料配布されていた患者の多くは薬価の高額さに薬剤を十分に買えないという状況に陥った。満屋やブローダーは唖然としたという。
さらに、B-W社は本社の英国と米国特許庁にもAZTの発明特許を申請するが、発明者は社内の人間のみでそこには満屋、ブローダーなどの名前は一切なく彼らには内密にしていた。一旦米国特許庁に却下されたが、繰り返しの申請の末ついに会社は特許を手に入れた。
ニューヨークタイムズもラルフ・ネーダーの「パブリック・シチズン」、後発のカナダの製薬会社などがこの特許の無効性、法外な薬価の高さなどに異論を唱え訴訟を起こした。米国政府機関であるNIHでの仕事であったので、政府も民間の会社とは対峙すべきであった。しかし米国政府は動かなかった。そして米国の司法(B-W社のあるノースカロライナの地方裁判所)はこれを却下した。B-W社は巨額の資金を使って辣腕の弁護士を雇い、訴訟に勝訴した。満屋は裁判所から証人喚問されたりもした。2万5千ページにも亘る資料の提出を求めてきたが、それでも裁判に非協力的であると糾弾された。当然医学者の満屋に特許の知識が長けているわけではなかった。素人的に考えれば、満屋が発明したのは紛れもない事実だが、会社はすでに抗ウイルス効果は知っていて、AZTのエイズウイルスへの効果を発案したのは会社であり単に満屋はそれを追試しただけ、との言い分のようである。しかも彼の行動は冒険主義であるとされた。ためにする詭弁としか思えない。しかしそれが米国の裁判では通ったのである。
この本の著者の堀田は書いている。
「96年1月16日、最高裁も控訴を棄却した。それにより、満屋の名前がアメリカの特許に共同発明者として名を連ねる機会は、無くなった。それは平等と公正を基礎にした民主主義を実践しているはずのアメリカが、ひとつの「発明」を殺した瞬間であった。」と。
1991年 ddI(ジダノシン)が新薬の認可をうけた。
1992年 ddC(ザルシタビン)が新薬の認可をうけた。 今度は満屋は両薬の特許を手にした。 これによってAZTの市場での独占は崩れた。しかしそれまでにB-W社は10億ドル以上の売上をあげていた。
1997年 母校熊本大学の第2内科教授に迎えられる。
2003年 プロテアーゼ阻害剤の「ダルナビル」を発見 アラン・ゴーシュ教授との共同研究
2006年 FDAがダルナビルを新薬として認可、日本の厚労省も翌年認可。米国はアフリカなどに特許料なしで使用できるようにした。(特許無償委譲)。これは満屋が望んでいたことだった。
2015年 世界のHIV患者 3500万人  年間150万人のエイズ患者が死亡
2015年 日本学士院賞を受賞
2018年 「EFdA」という逆転写酵素阻害剤の研究開発中 抗ウイルス活性はAZTの400倍以上
後に満屋は述懐している。
「AZTを飲まなかったことで何百、何千という患者さんが死んだのです」
「そういうときに研究者が取り得る道というのは、第二、第三の薬を開発することなんです。研究を通じて戦うことだけ。それ以外、製薬会社に報復する手はない」「そして思ったのはザマーみろ、ということでした。」とインタビューで答えていたのはさんざん満屋をないがしろにした製薬会社へのせめてもの控えめな反論かと思いました。

当日の講演の終わりに現在のエイズの治療の進歩によって、エイズはすでに現在の黒死病ではなく、天寿を全うできる慢性病にまでなったと。AIDS is losing. そしてあと10年、自分はまだまだ治療薬がない疾患、例えば成人T細胞白血病、B型肝炎ウイルスの治療薬の開発に情熱を捧げたいと述懐されていました。これ程の業績をあげながら、まだまだ新たな夢に邁進するその情熱はどこから湧き出てくるのか、ただただ恐れ入り仰ぎ見る思いでした。
またさらに、プルーストの箴言を引用されました。
「真の発見の旅とは、新しい景色を探すことではない。新しい目でみることなのだ。」
そして、常に愚直に問題の現場にいること、という現場主義の大切さを述べていました。
Stay Hungry Stay Foolish
これは若い医学者に向けたメッセージでしょうか。
講演の座長の山梨大学の島田教授は若かりし頃、NIHで共に過ごした思い出を述べ、長年サポーターとして付き合ってきたこと、また特許無償提供は山梨大学のノーベル賞の大村先生を思い起こすと述べられたことが印象的でした。まさに日本人の優れた倫理観を体現する人々だと思いました。

エイズの歴史において忘れてはならない先生であることを再認識したことでした。