風雪のビバーク

風雪のビバーク  松涛 明

久しぶりの山の本の記事です。といっても実は以前同名で当ブログに記事を書いているのですが、ある時ブログがダウンしてしまってこの部分も復元できずに反故になってしまいました。皮膚科の内容は昔のこととてそれ程気にも止めませんが、むしろ山の本のことはずっと気にかかっていました。その中の一つがこの本でしょうか。それで図書館から借りてもう一度読んでみました。
著者の松涛 明(まつなみあきら)の紹介文として次のように書いてあります。
「1922年仙台に生まれ、府立第一中学校から東京農大に学ぶ。中学時代から登山に熱中し、1938年7月東京登歩渓流会に入会。つねに尖鋭なクライマーとして活躍した。1949年1月、槍ヶ岳、北鎌尾根において打ちつづく風雪のため遭難死す。行年28歳」

本書は、松涛明亡き後、北鎌尾根遭難の顛末を風雪のビバークとして、杉本光作らの登歩渓流会がまとめたものと、生前の彼の寄稿文、記録集よりなる遺稿集という体裁をとっています。それゆえに全体の松涛明の本としてのまとまりには欠けますが、短かった彼の山の人生の足跡、考えを知ることができます。なにより遭難し、最期の時まで克明に記された手記には読む人に感動と感涙の念を起こさせ、不朽の山岳名著として有名です。
彼らが遭難した北鎌尾根は山岳愛好家にとっては特別なところのように思われます。それは、当の松涛 明の壮絶な遭難の手記とともに、これまた山岳家のレジェンドともいえる加藤文太郎が遭難死したところでもあるからです。北鎌尾根は日本アルプスの中でもひと際目立ち、秀麗な槍ヶ岳から北に連なる岩尾根です。風雪のビバークは遭難報告、手記部分ですが、生前の松涛明の山行、文章には早熟な非凡な才能を感じます。もしも彼がそのまま生きていたら日本の登山界をリードするような山岳人に成長したのではないかと思わずにはおられません。
本書の山行記録の中で特筆すべきはわずか18歳での北穂高岳滝谷第1尾根の冬季初登攀、遭難前年の北岳バットレス中央稜初登攀の記録でしょうか。戦前の(昭和14年)それ程良い装備もなく、滝谷もそれ程開拓されていなかった時代に、日本でも一級の岩場の冬季滝谷を初登攀しています。しかも本格的な岩登りは前年に始めたばかりです。東京登歩渓流会に入会1年わずかですでに尖鋭的な登山をはじめています。滝谷の登攀は夜間にまで及び、皓々と月の照る北穂の頂上に抜け出したのが夜の22時15分だというから驚きです。後年「貧弱な私の経験を通じて、この登攀は最も苦しくもあり、かつ想い出深いものであった。もう一度やれと言われても恐らくやれないかと思う。」と述懐しています。
北岳バットレスは戦前から何回も通った岩場ですが、昭和23年はその集大成ともいえる1週間にもわたる大樺沢生活を送り北岳バットレス概説をしています。第1尾根から第5尾根までほぼ全ての尾根を登りつくし、23年合宿では直接北岳頂上に突き上げるクラッシックで北岳で最もハイライトともいえる中央稜の初登攀を成功させています。
これ以外にも昭和15年の「春の遠山入り」では、伊那ー易老岳ー聖岳ー赤石岳ー悪沢岳ー椹島ー伝付峠と3月の雪深い長大な南アルプスを1週間にわたって単独で横断した記録で目を見張るものです。
その他、短期間に丹沢、谷川、穂高、南アルプス、八ツなどを精力的に登っています。

単に登るだけではなく、登山に対する真摯な考えを持ち、会報に鋭い考察も寄稿したりしています。特に3年程の兵役を終えて、戦後になると登歩渓流会の中心人物になっていったようです。会の重鎮の杉本光作氏は「約3年間の軍隊生活は、彼を人間的に大きく成長させていたようだった。一言でいうならば、人格に一段と磨きがかかった感じだった。復員してからは物資不足と安定しない世情にもかかわらず、再び山への闘志をかきたてて戦前にも劣らない山行を続けていたのだった。戦後は会の古い人達も殆ど山から遠ざかっていたので、松涛君が事実上の会の指導者だった。山行の傍ら会報の編集、発行、発送まで一人でやっていた熱心さにも頭の下るほどだった。山に対して卓越した識見を持ち、会をぐんぐん引っ張って行ったのもこの頃である。」と述べています。さらに自ら学生でありながら極地法をとる日本山岳会や学校山岳部の在り方に疑問を持ち、登山は大衆のものだとの考えから山岳連盟の必要性を主張し、将来のヒマラヤ登山に対しても一家言をもっていたそうです。
寄稿文も単なる報告ではなく、一方で簡潔で正確を期しながら、一方で情景の描写は活き活きとして伝ってきます。タラ、レバながら遭難しなければ戦後の登山界のリーダーとなっていたのでは、と思わせます。

次に私の好きな一節を引用します。
戦後山どころではなく、山を忘れようと自分にいいきかせようとして暮らしていた頃の文です。
『ある日、私は隣村に通ずる橋を渡って、伯父の家へ急いでいた。今まで貸していた土地の問題について伯父の知恵を借りるために。もう夕暮れ近くなって、涼しい風が田の面を渡っていた。稲の青い穂が波打って、秋が近づいていた。田園の果に、筑波、加波の山波が夕陽を浴びて黄ばんでいた。その上に、山の高さの数倍の高さに、巨大な積乱雲が盛り上がっていた。紅みがかった円い頭は、なおも高く湧き返っているようだった。その姿は突然、私にかつての日の夏の穂高を思い起こさせた。それは烈しい、自分自身でどうにも抑えられぬほどの山への思慕であった。静かな夏の夕暮れ、人気の絶えた奥穂高の頂に腰を下ろしている時、ジャンダルムの上に高く高く聳えていた雲は、この雲ではなかったか。そして今もまた、この雲があの穂高の上でひっそりと黙って湧き上っているのではないだろうか。
「山へ行きたい」、「穂高へ行きたい」。もう用件も何もあったものではない。すぐ家へ帰って、ルックを詰めて・・・。よほどのこと、私はそうしようかと思った。』・・・時として自分にもこのような感情が湧き上がることがありました。

戦後の山への活動を再開させて、さらに高みへと邁進していた時に突然、終止符が打たれます。それがこの本の題名にもなった槍ヶ岳北鎌尾根での風雪のビバークです。実はこの計画には先があって、穂高を経て焼岳までの縦走を計画ししかもノンサポートで、荷揚げも行わず、約1ヶ月分の食料装備一切を2人で担いで行動しようという壮大なものだったそうです。
遭難には想定外のことが積み重なって起こることが多いですが、この山行も普段とは様相が異なっていました。まず、12月年末には異常なほどの気温の高さです。23日の手記。「雪の消えた事オドロクばかり、P2の側稜はまるで五月の山で、地肌さえでている。P1との間の沢へ入って中間の側稜を登ったが、非常に苦しかった。」
その後の雨風です。大雨でずぶ濡れになり、テントも濡れ、有元との合流は数日遅れ、濡れたテントはバリバリに凍り、残置し、ツエルト、雪洞泊に予定変更しています。ラジウスは焚きっぱなしで後日の器具の不調にも繋がったかもしれません。しかも26日には「熱っぽく、耳下腺腫れる。雨もひどいので休養とす。朝食抜きで11時頃までねる。午後有元にヤッホー送るも応答なし。」とあり、27日には「豪雨沈澱、テント破れんばかりにはためく。」 28日には有元と合流し一旦下山、その後一転して気温は降下、30日は湯俣からP4手前でビバーク、31日は「アラレ、ミゾレの中のツェルトビバーク、雪はげしくツェルトを覆い、首の根を抑えつけられた。これまでに最も苦しいビバーク。身体は濡れ殆ど眠れず、燃料消費烈し。」と。
明けて1月1日は大風雪、アイゼンも輪かんも効かず、烈しい風雪中に苦闘しやっと北鎌コルに雪洞を掘り逃げ込むもラジウスが不調となりました。 1月2日「ラジウス破壊、然罐とガソリンの直焚きで水を作る。7時頃息苦しくて気付いてみると入口閉塞、有元掘る。動揺激しく、風雪は昨日にもましてひどいし、濡物もそのままなので1日沈澱。上るか、下るかの岐路に立つ。」とあります。実はここが生死の分かれ目だったかもしれません。そのままならば撤退していたかもしれませんが、皮肉にも「夜星空となる。ラジウスも応急修理で何とか燃え出したので明日は登高とする。」と書いてあります。つかの間の偽りの天候回復だったようです。
1月3、4日も風雪、有元は足を凍傷にやられ、それでも悪戦苦闘の末悪場独標越えをしています。夜中には小さい雪洞の入口は風で飛ばされ、全身雪で濡れる、と遭難寸前の状態です。(後の記録でも雨、ミゾレ、吹雪と続く気象は異常で1月4-8日に亘る大吹雪は記録的なものだったそうです。)
1月5日 フーセツ SNOWWHOLEヲ出タトタン全身バリバリニコオル、手モアイゼンバンドモ凍ッテアイゼンツケラレズ、ステップカットデヤリマデ ユカントセシモ(有)千丈側ニスリップ上リナホス力ナキ タメ共ニ千丈ヘ下ル、カラミデモラッセルムネマデ、15時SHヲホル
1月6日 フーセツ 全身硬ッテ力ナシ 何トカ湯俣迄ト思ウモ有元ヲ捨テルニシノビズ、死ヲ決ス オカアサン アナタノヤサシサニタダカンシャ、一アシ先ニオトウサンノ所ヘ行キマス。何ノコーヨウも出来ズ死ヌツミヲオユルシ下サイ・・・
有元ト死ヲ決シタノガ 6時 今 14時 仲々死ネナイ 漸ク腰迄硬直ガキタ、全シンフルヘ、有元モHERZ、ソロソロクルシ、ヒグレトトモニ凡テオワラン ユタカ、ヤスシ、タカヲヨ スマヌ、ユルセ、ツヨクコーヨウタノム サイゴマデタタカフモイノチ 友ノ辺ニ スツルモイノチ 共ニユク(松ナミ)・・・
我々ガ死ンデ 死ガイハ水ニトケ、ヤガテ海ニ入リ、魚ヲ肥ヤシ、又人ノ身体ヲ作ル、個人ハカリノ姿 グルグルマワル 松ナミ、・・・
数次にわたる捜索隊は7月末に千丈沢の四ノ沢出合い付近で2人の遺骸を発見しました。カメラ、手記は散逸しないようにライファン紙の袋に入れて、岩陰の流出の恐れのなさそうな場所に置いてあったそうです。
この山行の計画、天候予想、行動の判断など後にはいろいろと論評があるようですが、遭難最期にこのようにかくも冷静に手記を認めたことには驚きを禁じえません。何か死を達観して従容として死地に向かう侍のようです。これは戦争を経験した当時の人々の人生観もあるのかもしれません。同時代に活躍した岳人であり、文筆家の安川茂雄は書評に次のように書いています。「私たち(私も三島同様に大正14年だが・・・)の同時代には、たしかに死はごく身近な存在であったことはたしかである。・・・例えば、本書中にのこされた松涛の遺書、それは三島のそれとは明らかに異るのではあるが、そこにつらぬかれている死への距離、あるいは親しさといったものに無限の感動を覚えるのだ。・・・三島が葉隠れ論語中の「武士道とは死ぬこととおぼえたり」という言葉にいたく感銘していたそうだが、松涛のこの遺書中には「アルピニストとは死ぬこととおぼえたり」の印象を私など胸にうけるのだ。」
安川のこの文が松涛の考えそのものを代弁したものかどうかは分かりませんが、あの時代に青春を過ごし戦場で明日をも知れない毎日を送り、現に戦場で散っていった仲間を幾人もみたであろう人はどこか自分の死すらも達観して見られた、あるいは死に遅れた余分な命という気持ちがあったのでしょうか。
この本は最近もまた別の発行元より、再版されています。確かそこには手書きの遺書のコピーが載せられていました。それを思い起こす度に深い感動を抱かずにはおれません。遭難、また彼の全てを美化するつもりはありませんが、そのような時にはまた本書を紐解いて彼の足跡に触れてみたくなります。