太田正雄のエピソード ( 2 )

🔷東北帝大時代
仙台での10余年間の生活は、彼にとって医師としても文化人としても落ち着いた充実した年月だったように思われる。「仙台にゐた時は閑が多く、しばしば庭の草木を写生した。」しかし一方で還暦祝賀会での回想では「次に仙台へ行ったが、ここでは競争が激しく相当勉強した。仙台を去る時、学生になぜ東京に行くのかとやられた。勉強の便があるからと言ったが、残念ながら何もしなかった。・・・」と述べている。謙遜であろうが、無論そんなことはなく、多大な業績を残したことはすでに述べた。 東北には阿部次郎、小宮豊隆、児島喜久雄などの文化人がおり、またドイツの建築家のブルーノ・タウトとの交流もあった。
 満州時代から遠ざかっていたハンセン病の診療、研究も再開している。皮膚科学教本は出版していないが、学生への講義を学生らがまとめたものを、大幅に朱書きして校閲を繰り返し講義録としたガリ版刷り、Dermatologie 333頁が残っているという。太田は「余りにも原稿に誤りが有るので、自分で書いた方がはるかに楽だった。」と述べたという。
また昭和12年(1937年)東大転任の年には、動物寄生性皮膚疾患を出版している。東大泌尿器科の高橋明教授は木下杢太郎追悼号に真菌、ハンセン病などの業績を紹介したなかに「又著書<動物寄生性皮膚疾患>は之亦博士が非常に努力して書かれたもので、小は原生動物のスピロヘエタから大は節足動物の昆蟲類に至る多種多様の動物にして、苟も直接間接に人間に於て皮膚症状を惹起する寄生動物に関しては、細大漏らさず系統的に記述した又と得難き良書である。斯る大著述は全く太田博士にして始めて為し得たものと信ずる。」と最大の賛辞を送った。杢太郎日記には朝から夜半までこの本の虫の文献渉猟に費やしている様子や金原出版からの出版の催促にも「千本の手が有はしまいし。さういふわけには行かぬ。」とその歴史、語源をギリシャ、ラテン語まで遡るなど徹底している。368頁のうち文献記載だけで77頁を割いている。熊本大学にもその一冊があるという。それを読んだ小野友道先生は「これだけの歴史を書くのにどれだけの文献を渉猟したのか、引用文献のリストを見るだけで筆者は怖気づくのである。」「ともかく現在でも動物寄生性皮膚疾患の論文を書く際には、まず読んでおかなければならない名著であることを若い皮膚科医の諸君にお伝えしたい。」と述べている。また東大で花開いた太田母斑の研究もその萌芽はすでに仙台時代にあった。
🔷東京帝大時代
充実した仙台での生活を打ち切って、昭和12年東京帝大の教授に就任した。学生達の面倒見もよく、森鷗外の会なども開催し、彼らから強く転任を慰留された。学問、研究の発展のための決意だったが、東京での生活の始まりは意外とも思われるほど苦渋、後悔の言に満ちている。赴任4ヶ月後の日記には次のように、東京に来た事を後悔する言葉に満ちている。
・経済的に苦しい。単身赴任で、仙台に家族を残して来たが、報酬は2軒の家を支えるには足りない。嫌な紹介患者を診なければならないが、その礼は僅かである。しかも退職発起人などの出費は次々に来る。
・教室が彼にとっては過渡期で、自分の外で回っている。自分は唯皮膚の外来と入院と講義とに関わっているだけだ。
・医局はこの1か月以来動揺して、新しい部署に出ていく。お互いに関連のない博士論文の仕事をするだけで、特に自身の癩の研究は中止状態だ。
・東京の教室は思ったほど、富裕ではない。年12万円の収入も大部分は本部に取られ、残りは教室運営と医局員の研究費に費やされ、本を買うことも、画工を雇うことも、ライカ写真機を買うこともできず、仕事は自費でやらねばならない。
・少しの余裕を文芸のことに向けることは東京では却って難しい。
・殊に困ることは仙台のように一教室が自分の主宰ではないことである。(皮膚科泌尿器科教室であり、教授は2人いた。大正時代までは土肥慶蔵が1人主任教授で両学を全て仕切っていた。戦後分裂する前の過渡期であった。)
・個人生活が楽しくない。
・泌尿器科から全く離れたこと、仙台時代と違って他科の人々とは全く別世界の人となったこと。
それでも、次第に東京生活にも落ち着きを取り戻していく。しかし時代は戦争への足音が迫ってきていた。言論活動にも、教室の仕事にもその影響はでてきている。物資は不足し、教室員は戦場へと駆り出されていった。その中でも4題の宿題報告をなし、着実に業績を重ねていった。

 太田正雄の活動として、ハンセン病は特に力をいれた分野であった。満州、フランス留学時代一旦その研究から遠ざかったが、また仙台で復活する。特筆すべきは1930年マニラでの第1回国際癩会議に出席したことであろう。この会議では国際連盟の委員である長與又郎が招待されたが、病気のために太田が替わって国を代表して出席した。この国際会議とそれに続くフィリッピンのクリオンのハンセン病施設見学で、太田の考えが癩の絶対隔離ではなく、「隔離と外来治療」という確信に至った。しかし、日本での国の政策は明らかに「絶対隔離」へと向かっていった。東京帝大教授となってからは、さらにハンセン病の研究に情熱を注ぎ、伝染病研究所に通い、癩菌の培養に取り組み、また外来治療もなされた。日本で本格的にハンセン病に取り組んだ人は光田健輔であった。後に癩予防法廃止運動に取り組んだ元厚生官僚の大谷藤郎は「日本のらい事業の良くも悪くもその殆どが光田健輔氏の主張と行動に負うており、まことに巨人というにふさわしい生涯であった。だが今日になってみると、数十年にわたる患者悲劇の結果に対して、今その功罪が問われている」と述べた。これに対し太田は国策としての絶対隔離に表立って異は唱えられる立場ではなかったものの一貫して批判的であった。癩は細菌感染症であるから、合理的な治療法は化学的療法です、と言い切っている。そのために癩菌の動物接種培養に努力しているとしている。戦時下においても空襲の間隙をぬうようにして伝研通いを続けて、癩菌の培養に取り組み続けた。残念ながらそれは失敗に終わった。それも道理で、2001年に癩菌の全遺伝子が解読され、偽遺伝子が多く機能している遺伝子が少ないことなどから、菌は生体のマクロファージなどやヌードマウスの足蹠など特殊な環境でのみしか増殖できないことが解明されたそうである(小野友道 (26) )。ただ太田の考えの方向性は正しく、戦後間もなくしてプロミンによる治療効果が明らかになった。その報告を待たずに太田は昭和20年10月15日にあの世へと旅立っていった。

太田が東京帝大へと赴任したのは、皮肉にも日華事変が生じたまさにその年であった。徐々に経済が困窮し、物資は不足し、言論の統制は厳しくなり、学徒は戦場へと駆り出されていった。その中でもあれだけの業績を上げ、ガリ版刷りながら皮膚科の教科書を残している。彼はその時代をどのように生き、戦争をどのように感じていたのだろうか。日々の日記から見て取ることができる。大戦直後の医局でのねぎらい会では「私は今まで陸軍海軍の奴らめ勝手なまねばっかりしてやがると陰口をきいてきたが、(12月)8日からは言わなくなった。こんな未曾有の世に生まれてきたことを有難いと思っている。(中略)今回の開戦でわれわれはいよいよ東亜共栄圏の指導者になるようになった。・・・」などと一見戦いを容認するような発言もしている。まあ、まがりなりに政府の役人の立場の彼が否定的な言動はできなかったであろう。陸軍軍医学校に講義に出かけ、陸軍のペニシリン研究会に参加するなど軍部に協力する立場であった。しかし、次第に日記の中には戦争、軍への批判的な記事が多くなる。大本営発表、空襲警報の記載はあるが、(どこそこが爆撃されたなどの記載は禁忌だったらしい)教授生活、伝研での研究はほぼ通常通り続けたらしい。しかし、ミッドウェー、ガダルカナルの敗退、18年6月5日山本元帥葬送遥拝などを経て、さらに軍に対する批判記事が多くなっていく。一般人が見たら非国民扱いか、特高に検挙されるやもとも思われる内容もある。「帝都をかくも惨憺たる目に會はせるなど、軍部の見込みは疎く大戦の準備はヘマであったことは誰しも考へる所である」「軍部は力に於て支配せり。その力が弱くなれば、又弱いと知られるれば既に他の窺う所となり、陽にではなくても陰に批評を受けるやうになる」「力以外にはその叡智、道義、科学、技術に於て他部に優つてしといふことがゐる所がなかったことが暴露する」「命は鴻毛より輕しといふことが揚言せられる。そして人の子を犬の子、いなごの如く殺した。命をあまり輕く見ることが、防ぐのみならず攻める武器の發達をも阻害した」などと綴った。そして空襲のさなかでも学生への講義を続けた。防空壕の中で学生に向かって「君たちは勉強しているか。」「こういう時局だからこそ、勉強しなくちゃいけない。朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり。いま、まさに否応なしにその状況に置かれているんだ。」「君たちは知識と知恵を区別しなくてはならない。知識は、人間が知的活動を続ければ続けるほど無限に増えてゆく。でもいくら知識を積み重ねても、それでは知識の化け物になるだけだ。それではいかん。人間のためになるようにするにはどうすればいいか。知恵が必要だ。では知恵を学ぶにはどうすればいいか。古典に親しむことだ。古典には人類の知恵が詰まっている。」そう言うと杢太郎は立ち上がり、風のようにさあつと去っていった、とある。この時期に医学生として太田の講義を聴いた加藤周一は後に「1945年8月15日、降服の放送を聞くと、多くの人々は泣いたが、死病の床にあった太田正雄は、手を拍つてよろこんだといわれる。彼は戦争が何を意味するのかを知っていた。私には、知るべきことで、彼の知らなかったことは一つもないように思われる」と述べている。
 敗戦後の廃墟のなかで、10月15日太田は61年の波乱に満ちた生涯を閉じた。胃癌であった。多くの弟子達に見守られながらの最期であった、と「とのゐ袋」に記載があるという。しかし敗戦後の窮状では霊前には手向ける献花さえもなかったという。
泉下の太田正雄は今日日本国内だけではなく、国際的にも皮膚科医として、はたまた文化人として高く評価されているのを知っているのであろうか。その足跡は現在も色褪せていない。

 太田正雄はかつて森鷗外のことを「森鷗外は謂はばテエベス百門の大都である。東門を入つても西門を究め難く、百家おのおの一兩門を視て他の九十八九を遺し去るのである。」と記したが、岡本隆はこの文は「実はそのまま木下杢太郎の案内書にも書かなくてはならない」「故上田三四二も生前、<鷗外はおろか、木下杢太郎だってわれわれの(研究、論評の)手に余る存在だ>と嘆いた」という。
彼を生涯の師表と仰ぐ野田宇太郎は太田正雄の亡くなる数年前から編集者の立場ながら太田に密着している。そしてその没後は資料を渉猟して「木下杢太郞全集」の完成に力を注いだ。今日木下杢太郞の足跡が忘れ去られる事なく、世の中に繋がってきているのは、野田の寄与によるところが大とのことである。

上野賢一先生、小野友道先生の随想の中から医学に関した部分の評伝を抜き書きしましたが、文化人としての木下杢太郎の部分は敢えて省いてきました。次回はその部分について抜き出してみます。