太田正雄のこと

 太田正雄/木下杢太郎の評伝は上野賢一先生(筑波大学名誉教授)による『「杢太郎」落ち穂拾い』が「皮膚科の臨床」誌への連載として2009年に始まり、上野先生のご逝去された後を継いで、2013年5月号からは小野友道先生(熊本保健科学大学長)が『太田正雄/木下杢太郎 世界的で、人道的で』というタイトルで2017年3月号まで連載されました。
 ここで、今更太田正雄について何かを書くことは、両先生に対して失礼なことかとは思いますが、まとめたことを書いてみたいと思います。その理由はこの皮膚科の巨星のことを、詳細に、格調高く紹介していただいた先達に敬意を表するためと、もしまだ太田正雄のことをよく知らない、特に若い皮膚科の先生に知って頂き、その評伝を読んでいただきたいという思いからです。
 まとめを読んで、お二人の評伝を読む気になれば望外の幸せですし、その気を起こさなければ、小生の纏める力、文章力の乏しさによるもので、恥じ入るばかりです。
 膨大なその足跡と資料を、簡潔にまとめる能力などありませんが、皮膚科医としての太田正雄と、文人としての木下杢太郎に分けて概略を書いてみたいと思います。まずは皮膚科医としての太田正雄について。

明治18年(1885年) 静岡県伊東市で太物雑貨商「米惣」の四男三女の末っ子として生まれる。
14歳 東京の独逸協会中学に入学。
明治36年(1903年) 第一高等学校第三類(医学コース)へ進学。
明治39年(1906年) 東京帝国大学医学部入学。
明治45年(1912年) 東京帝国大学皮膚科泌尿器科入局、入局前7か月間衛生学教室で細菌の研究
大正5年(1916年)  南満医学堂教授
大正10年(1921年) フランス留学
大正13年(1924年) 県立愛知医科大学(現名古屋大学医学部)皮膚科教授
大正15年(1926年) 東北帝大教授
昭和12年(1937年) 東京帝大教授、傳染病研究所所員を兼任
昭和20年10月15日(1945年)死去

木下杢太郎の追想文は数多くある中で、医学的業績も含めて全人的な全貌は彼の直接の後任者である北村包彦(1889~1989)1946~1959 東大教授による追悼、回想文に「杢太郎の姿を具象的に、鮮明に、魔法のごとく浮かびだして」いる。(上野(39))
それを基にして上野、小野先生の評伝から業績、足跡をたどると。
🔷真菌症
東大皮膚科入局後は、顕微鏡に向かって真菌の観察、描写に余念がなかったそうである。またサブロウの真菌学の教本を学び、仏語にも親しんでいったようである。フランス留学時は碩学のサブロウに師事した。当時のサブロウは大先生で東洋からきた無名の青年医師を軽く見ていたふしがある。汗疱状白癬の発見をサブロウに送付した際、その存在を全く評価していない手厳しい内容の返信を受け取っている。また留学時にはサブロウなどてんで小生を信じぬから(実験を)中止した、などと愚痴を述べている。しかしその後植物学的形態より真菌新分類方式(Ota et Langeronの分類)を提唱し、後にフランス国よりレジオン・ド・ヌール賞を受賞している。(これについてはサブロウから多少の不満をウケた事があると述懐している。)ただ、サブロウの死に際しては太田はその業績を讃え、教養深く古典、音楽、彫刻にも秀でていたと追悼の文を雑誌に献じた。
 山口英世は近年の分子生物学的手法を用いた真菌の分類がおよそ百年前の太田の分類と驚くほど一致していることを指摘し、太田の精緻な形態に対する能力の素晴らしさに驚嘆している。むしろ菌の毛髪に対する態度を基礎にしたサブロウの系統分類よりも科学的なのかもしれない。また山口は数十年の空白を経て、太田の分離発見した真菌株(M. ferrugineum)がヨーロッパで保存されているのが見つかり太田先生の論文通りの見事な鉄さび色をしたコロニーが生えてきたときの興奮を述べている。太田の弟子で戦後の医真菌学を継いだ福代良一は(太田の真菌での業績で)「特筆しなければならないことは第一に、東アジア地区の頭の白癬(シラクモ)の主要な原因菌であるM. ferrugineumが新種として発見・命名されたことである」と述べている。(小野 (41))
真菌の研究は(珍しく)長きにわたり真菌に関する論文は39編(日16、独5、仏16、英2)と多彩である。
「先生が帰朝されたときには適当な席がなく、いっそ皮膚科学を捨てて伝研か北里研で真菌学の勉強をしようかと考えた。・・・昭和12年5月再び遠山の後任として東大に転じた。この間真菌学の第一人者として菌種コレクション、新菌種の決定、その顕微鏡的所見、培養の肉眼的所見の研究、日本ミコロギー協会の設立など、我が国の医真菌学の基礎を確立したものの、戦後に医真菌学が大いに興ったのを見ないで、又国情の大きく変わった姿を見ないで歿くなったことは惜しまれる。」(北村)
🔷母斑症
太田母斑、これはもう太田正雄を世界的な大皮膚科医として、世界中の教本に取り上げる所以となった真骨頂ともいえる研究業績である。東大に着任後すぐにその存在に注目したようで(その萌芽はすでに仙台時代からある)すでに前年にその端緒となる報告をしているが、「我國に甚だ多き母斑の一典型たる「眼・上顎部褐青色母斑」並にそれと眼球色素沈着症との關係に就いて」を昭和14年(1939年)に発表している。
「ここに記す一種の母斑は、従来は大體色素性母斑と診断せられ、専門家の特別の注意をば惹かなかったやうであるが、それは色素性母斑とは其性質を異にし、寧ろ青色母斑の一特殊型と見做すべきものである。・・・此母斑は皮膚に於ては眼神経と上顎神経との支配域のみに發現し多くの場合(我々の観察例二十六中十七、即ち六十五%)には眼球メラノオジスと倶に存するのである」と、その観察は鋭く、すでに今日の太田母斑の概念をほぼ記載している。両側性症例の存在もあげている。女性に多いことにも触れている。(小野(44))
また谷野の論文を指導した際に「君、クロアスマとの關係もしらべなくては、いけないね」と話したという。これは今日の真皮メラノサイトーシス、肝斑など鑑別を要する顔面の色素斑の諸型もすでに太田の頭の中に浮かんでいた可能性もあるのではないか。・・・さらに最初の論文で病理組織像がカラーの顕微鏡図として残されており、そこには真皮のメラノサイトばかりではなく、それを被覆している表皮部分のメラノサイトの数も周辺より多く描かれていて・・・太田正雄の観察力の緻密さ、あるいはパターン認識の力量は他を寄せ付けない凄さがある。(小野 同上)
🔷ハンセン病研究
ハンセン病については北村は太田正雄の生誕100年にあたり「日本癩学会の諸学者と提携しての癩の病型分類、その病理組織学的根拠の追及、延いて結核様癩の確立、癩の新接種法としての人癩類代家鶏接種の試み・・・」と書いている。
また上野は「定年後は研究対象として真菌学を選ぶことはしなかったと思う。極端な言い方をすれば、植物としての真菌には興味を持っていたが、それ以上突っ込む気はなかったのではなかろうか。・・・真菌よりも癩(ハンセン病)が彼の仕事の対象として強かった。定年後に研究生活を続けたとしたら、癩に向かって行ったことは確実であろう。・・・仙台時代に感染状態についてフィールド研究を行い、東南アジアでの国際癩学会を期に、該地(シャム、フィリピン、支那など)の癩対策、特に社会的対応をつぶさに視察し、また疫学的調査を『南方諸国に於ける癩』(1943)として纏めた。そして結論的には癩は不治の病ではなく、的確な治療剤があれば必ず完治は可能であり、当時の王道であった光田式の隔離方針には大きな疑義をもっていた。こんな方式は日本だけではないか。海外では厳重隔離どころか在宅診療をしている。癩は遺伝でもなく、体質に基本があるのではなく、細菌感染症であるから、必ず有効な薬剤があるに決まっている・・・昭和20年前後はスルフォン系薬剤の治癩効果が注目され始めたときであり、杢太郎が生きていたら、治癩剤は数年は早く完成したであろうと言われている。(上野 (26))
また谷奥喜平の思い出として、「学会の懇親会で”杢太郎で有名な太田先生”と呼び声がかかって、”僕は癩を研究している人は立派だとおもう。みな研究者でありヒューマニストだ。最高の勇気を持った人たちばかりです”と挨拶されたのが私の記憶に残っている」とある。(上野 (27))
(長々と上野先生の文を引用しましたが、太田の癩に対する考え、取り組み方、当時の状況が具に理解できると思います。しかしながら現実には日本は戦後も諸外国と異なる道を辿り、ハンセン病治療に大きく後れをとって禍根をのこしてしまいました。)
🔷その業績の評価について
上に書いた主要な業績だけでも、文句なしに超一流の評価がされているものの、一方で皮膚科に限らずあまりにも多方面に手を広げて才能が有り余ったせいか、「杢太郎は序曲は歌ったが、その歌劇を最後まで書き上げなかった」と批評する論調も少数みられる。直接の弟子の北村包彦(かねひこ)の杢太郎論にも「太田教授は、その発想、或いはその所説が想像的に過ぎると屡々云われたが、想像力が研究を誘導したこともあったと思われる。これ等の業績の発表に寄与したものとして、教授の広く、深い語学力、優れた文章力を挙げたい。・・・」とやんわりとその研究が想像的過ぎるといわれたことを述べている。
 上野が座長を務めたある座談会で”序曲問題”に主題を向けた際に平川は「自分が一番活き活きと感じている問題にさーと入っていく。そして多少飽きが来て、その問題が少し古くなって、筆がにぶくなるという感じになっていると、その仕事はどうもそれ以上あまり続けないというタイプじゃございませんか。非常にねばり強い面も一面ではあるのですけれども、画面でいえば、広いキャンバスを力にまかせて油絵具で埋めていくという人ではなくて、やっぱり印象派のタッチのいいところをさっさとかく。紀行文など特にそういう感じではないかと思いますが。」
また杉山は「詩でも、白秋が”通っていったあとにもったいないほどのいろんなものを残していった”と『食後の唄』の序文でいっている程多くを未完成で残していかれた。詩作の上に一生かける人間にとっては、本当にもったいないと思うのと同じで、小説でもそうでしょうし、おそらく専門の医学の中でも、そういうものを次々と振り捨てられるというか。・・・」
さらに宇野浩二は「彼は骨の髄までの好事家であり、芸術の殆どあらゆる方面に一通りの才能を持ち、相当の学識を持ちながらどの一つも貫けなかった」。このようなネガティブな批判に対して、吉田精一は「杢太郎は芸術的気質を多分に持ち、それこそ”骨の髄までの芸術家”であったために、自己の持つものを折にふれて発散せざるを得ぬ衝迫を感じ、その結果が多岐にわたったのである。・・・」と述べている。そして「この豊かな詩才と、芸術的天分のもち主が、生涯芸術以外のことを本業にしなければならなかったのは、あるいは不幸というべきだろうか。」とまで言っている。
ネガティブな論評の最たるものはムラージュ制作の天才的職人の長谷川兼太郎である。「あの人も医者なら医者、文学なら文学やってりゃあ文化勲章ぐらいもらえたのに。要するに気が多いんで、これじゃ駄目だと思ったな。医学でも糸状菌やってるかと思うとレプラやる。それもどんずまりまでやるんじゃなくて又変わる。それじゃ具合悪いわな。傳研でやったが(中略)学会で発表したんだが失敗したね。・・・」。これに対して、上野は「飾らない文章で微笑ましく言わんとするところはよく分かる。一般の平均的な、換言すれば世俗的な受け取り方にはこのようなものが多いのも理解できる。しかしこれは杢太郎を真に理解していない幾多の論説の骨格を示している。」と述べている。
川村太郎は太田正雄の皮膚科研究について「宿題報告(皮膚腫瘍に関する;1940)の内容は未完成のものであるが、凡人の思いつかない大きな問題を指摘することで終わっている。したがって先生の指摘された点をほじくり返しているといろいろのものが出てくる。・・・メラノサイトのneural crest説(1948)以前に“黒色上皮種”でケラチノサイトとメラノサイトの関係を提示し、これらの研究から太田母斑の流れが生まれてきた」。
上野は序曲問題を総括して次のように述べている。「杢太郞のセンサー(感受性)があまりに鋭く、ために次々とテーマが移動していったことが、「一寸齧りですぐ気を移す」と解されて、それが「序曲だけ」という表現になったものと思う。・・・彼のあふれる才能は、そのとき既にそのセンサーは、次の問題を感知してそちらに触手が伸びていったということである。・・・序曲を、「その歌劇の全貌を概観(Ubersicht)したもの」という本来の概念で言うならば、「杢太郞は序曲を歌った」ということは、彼がその問題に関して、「その本質の全貌を捉えて理解して仕事をした」ということになり、この意味で「序曲を歌った」という言葉を使ったならば、それは杢太郞の仕事を正確に評したことになる。」(上野 (22)(23))。

上野、小野先生の評伝を正確に網羅することなど、とてもできませんが、次回は皮膚科医としての太田正雄の生涯におけるいくつかのトピックス、エピソードを書いてみたいと思います。