Ueli Steckの死

先月末に著名なアルピニストがヒマラヤで遭難死したというニュースはテレビや一般紙でも報道されたのでご存じの方もおられるかと思います。その死に驚き戸惑うところがあって、一寸関連の報道を調べてみました。
不世出のアルピニスト、クライマーで「スイス・マシーン」とも呼ばれた登山家Ueli Steck(ウーリースティック)です。
小生がその名前を知ったのはそれ程前ではありません。確か昨年あたりある山のブログ「月山で2時間もたない男とはつきあうな!」の中の記事をみていて偶然知ったのだと記憶しています。とにかく信じられない程難しい岩壁を信じられないスピードで単独で登る人のようでした。あの難関のアイガー北壁をたったの2時間半で登る? 最初は20時間の間違いだろうと思いました。You Tubeでの駆け足のように登る画像を見てあまりのすごさにまともな反応もできませんでした。昔のレジェンド達の壮絶な悪戦苦闘、遭難を経てきた北壁の歴史を軽んじられているようで、あまりすんなり肯定的には受け取れなかったようにも思います。
You Tubeなどの画像やとてつもなく超絶で派手な記録などをみると、一見命知らずの無鉄砲なソロクライマーでいずれはこうなったろうとの意見もありますが、彼をよく知る山の一流の人々は彼への賛辞と追悼の言葉を連ねていて、その暖かく、思慮深い人柄が偲ばれ決して単なる機械人間ではなかったのだとわかります。
その中から代表的な寄稿をいくつか。
【ラインホルト メスナー】
アルピニズムのゴッドファーザーとも呼ばれる人の彼への感慨(スイスのNZZ紙のインタビュー)
彼ほどの実績と経験を積んだ人の遭難は驚きです。
[Nuptseは彼の実力からするとそれ程難関でもない?]・・・多分北壁を目指したのだと思います。そこは決して楽なルートではありませんし過小評価すべきところではありません。ただなぜ彼がNupsteを最初に目指したのか釈然としません。唯一考えられるのはヌプツェ、ローツェ、エベレストの頂上を繋ぐいわゆるhorseshoe(馬蹄形)の縦走を同時に狙っていたのではないかと。それは多くのアルピニストの夢でもあります。
[彼はそれを公言してはいませんでしたが。]・・・我々は当初には控え目にしか公言しません。そしてより野心的な成果を果たせば公表する傾向があります。horseshoeは極端に困難なルートで誰も成功していません。もし、それを成し遂げることが出来るとすればそれはウーリースティックその人だったでしょう。
[ウーリースティックは限界に挑み、多くのリスクを負っていました。彼はそれを超えた?]・・・それは正しいか間違った決断かという質問ではないでしょう。むしろ可能か不可能かということかと思います。そして彼は以前不可能であったことを可能にする人でした。私の時代ではアイガー北壁登攀の最速は10時間でした。2時間23分というのは実に果てしない記録です。彼は常に大胆な野望を抱き続け着実にそれを実現してきました。それ故に私は彼を尊敬します。しかし私は彼のスピードクライミングの追求にはそれ程惹きつけられていません。
[なぜ?]・・・私にとっては誰かがアイガー北壁を10時間で登ろうが、3時間で登ろうが重要なことではありません。それよりも彼が一夏でアルプスの4000m超えの82ピーク全てを登りきった方がより印象的です。この15年間彼のスポーツにおける影響力は本質的です。
[貴方はかつて優れたアルピニストは生き残るチャンスを増やすためにはより強くより速くなければならないと言っていました。ウーリーは単に速いばかりではなく、極端に速かった。それで危険性が 増したという、あなたの理論に対して挑戦するようなことは考えられませんか?]・・・アイガーの壁でウーリーが登っているのを目撃した人は誰もが彼の行動は常にコントロール下に置かれていたことを知っているでしょう。彼は常に正確で安全に行動していました。しかしながら一定のリスクの要因は残ります。もしアイガーの壁の上方から大きな岩が落下してきて当たったら登山者は墜死するでしょう。それは基本的なルールです。しかし人は出来うる限りのことをするしかありません。それはすなわち人はその個人の限界の少し内側に留まるべきであるということです。そしてその限界が何処にあるかはクライマー自身のみ知りうることです。他の人がリスクに対して審判すべきではありません。
[全ての高山が登り尽くされ、全ての北壁が極め尽くされた今日では、エリートアルピニストにとって挑戦とは如何なるものでしょうか? 注目を浴びるために生命を危険に晒すようなプロジェクトを探さなければならないのでしょうか?]・・・
優れたクライマーが今日より少なかったかつては、ある程度真実でしょう。目立つのはより容易だったでしょう。現在では旅行はより容易で手ごろです。多くの人がヒマラヤに手が届きます。またマウンテンスポーツには多くのスポンサーが付き大金が動きます。しかし限界を広げるのならば次の3つのいずれかが要求されます。よりハード(harder)に、より危険に(more dangerous)、より露出して?(more exposed)。経験をつめば人は限界を広げられるでしょう。ウイリースティックこそはそれを常に伸ばし続ける強い情動をもった人だったと確信しています。彼は自分自身に極めて高い基準を設置していました。

【Jon Griffith 】
ウーリー スティックの友人で行動を共にしていた英国のアルピニスト、カメラマンによる彼への心温まる賛辞
今後数週間に亘ってウーリーについて多くの記事が書かれることでしょう。彼は老若男女広い世代を超えて感動させ、かつてこの地球を闊歩していたどの人よりも山を渉猟したかもしれない人でした。しかし私は彼と近しい友人として、兄弟として彼のもう一つの側面を知る特権を持っています。「スイス・マシーン」としての当初の頃から、脚光を浴びてマスメディアに追い回されプレッシャーを感じていた最近までを。彼は常にクライマーとしての自分に真実であろうとすることと、他人へ感銘を与えようとする公人としての立場の中で不可能な狭間を見出そうと試みていました。それは最期の日まで人々を愛していたからです。彼はエゴに満ちたネット世界で謙虚であり、正直な完璧な見本でした。自身の内面に向かい合う人でした。彼は繊細で愛らしい人でそれが彼をして本当の友人たらしめました。私のキャリアと人生は彼への信頼に負うところが大です。彼との限界への登攀を共にしましたが、彼のEmmentalの大工としての内面は不変でした。そして私のシャモニの狭いキッチンテーブルの下で寝て楽しく語らいました。最後の数年はある人々の批判や中傷に心を痛めていました。単に過去に自分自身が経験も見たこともないとの理由で彼を信じられないとする人々からの。エベレストーローツェの横断は世の人々の目に彼の能力を再認識させる登攀でした。それは必要もないことでしたが。この先私の人生にウーリーを象った大きな空隙ができ、大きな喪失感が襲うでしょう。私の娘の成長を見ないこと、大きな笑顔と、輝く瞳を見ないこと、夜遅くまでウォッカを飲みに引っ張り出して彼のトレーニングの予定を邪魔することができないこと、人生や仕事について議論できないことを残念に思います。しかし、最も残念なのは一緒に時を過ごす内に”何でも可能だ”という気にさせる彼の存在とそのエネルギーにもう二度と接することができないことなのです。
世界中から彼への愛のメッセージが注がれるのを見るのは心温まることです。ウーリーは代々のクライマーに大きなレガシーを残すでしょう。彼は将来に見習うべき(登山)スタイルや姿勢を切り開くパイオニアでした。我々の世界に優雅さと謙虚さをもたらしてくれた真の紳士でした。しかし、私は友人としての、わが師表としての彼がいなくなったことを最も悼みます。時が傷をいやし、涙は枯れるでしょう。しかしもう二度と彼と会えず、goodbyeと言う機会がないことがとても信じられず悲しいのです。

これらの寄稿以外にも多くのメッセージや論評も寄せられているようです。多くの賛辞の中にあって、ウーリーについての負の(?)側面も述べられています。「スイス・マシーン」もやや揶揄したような表現ですし、余りにも先鋭的な安全性を確保しない登り方には眉を顰める向きもあり、2013年にエベレストでシェルパの張った固定ロープを無視したことからシェルパとの乱闘事件に発展したとあります。彼はシェルパを尊重しなかったわけではありませんが、彼のいかなるサポートも受けない登山主義は結果的に西欧と現地の登山界に軋轢をきたしたのかもしれません。
彼は通常4枚のカラビナとアイスピック、アイゼン、懸垂下降用ロープ、スイスアーミーナイフ、ボルトレンチしか持ちませんでした。酸素は”false air” “bottled doping”として拒絶していました。それ以上のギアに頼るのは登山の価値を半減するものとしていました。
表面だけみると粗野で無謀なスピード狂のアウトサイダーのようですが、彼をよく知る人、特にソロトップクライマーの評価は非常に高いようです。
彼自身、韓国のマウンテン誌のインタビューに対して、丁寧で謙虚な受け答えをしています。(上述の月山のブログから引用 2016.02.02)
長期的な登山の目標は何ですか?
「重要なのは、最終的にはそのプロセスにあると思います。私の登山は、これまで着実に成長してきたが、いつかはこれ以上進まない瞬間が来ます。遅く、弱くなる過程を喜んで受け入れ、クライミングの別の意味を発見することができたら良いでしょう。おそらく10年以内に、私の登山は、記録よりも冒険の要素がより重要になるでしょう。
 私の目標は、その変化の過程の中で、登山の楽しさを失わないことです。」

彼を生れながらの天才のように言う人もありますが、そのたゆまぬ努力は並大抵のものではなかったそうです。年間に1200回を超えるworkoutをこなし、1日で2000mを上下(3 lap?)する高度順化も相当数こなし続けたそうです。その努力を続けられるのも天才といわれる所以かもしれませんが。
それゆえに2013年には他のパーティーが8日かかったアンナプルナ南壁の7219mを単独で28時間で登って降りています。(2回目のピオレドール受賞)
これからも、彼についての様々な論評がなされるでしょうが、現在の登山界のトップランナーであり、空前絶後の巨星であったように思われます。ピークの瞬間を超えて、円熟期のウーリー スティックを見ることができないのは非常に残念なことのように思われます。

ウーリー自身は、他人との競争ではなく、自分の内なる山への渇望に邁進したのでしょう。しかしながら、後に続くトップクライマーに対してとてつもなく高いスタンダードを残しました。いつの日かこれを越えようとする人がでてくるかもしれません。アイガーやアンアプルナやエベレストをもっと速く、もっと難しいラインを、と。それは限りなく死に近づく試みになってくるのかもしれません。元々登山には危険はつきものですが、将来はどうなっていくのだろうと想像もつきません。