冬の谷川岳

最近家人にせっつかれて、古いアルバムの整理をはじめました。断捨離ではないけれど、ごたごたと溜まった本や山の道具やアルバムなどは、自分でも何とか整理しなくては、とは思っていました。それで古いアルバムの整理、処分を始めていたら古い山の写真に若い頃の思い出が蘇ってきました。
冬の谷川岳、思い返せば青春のごく一時期のことでしたが、憑かれたように通っていたことがありました。とりわけ冬の一の倉沢は魔の山谷川岳の代名詞のようなところですが、なぜか心惹かれるところでした。
多くは天候の模様眺めで、一の倉沢出合いから引き返したものでした。雪洞を掘って寝ていたら、次第に天井が下がってきて逃げ帰ったこともありました。雪崩の巣である一の倉沢に突っ込んでいくのは一寸勇気が要りました。どういう判断で入ったのか、今は良く思い出せません。先輩の後についていっただけかもしれませんし、厳密な天気読みはしていなかったように思います。ただ雪の落ち着いている時、夜明け前に一の倉尾根からテールリッジに取り付いて、雪崩の危険地帯からのがれるようにしていたようです(ほんの数回のことですが)。
色褪せた写真をみていたら、途切れ途切れながら当時の事が蘇ってきました。腰までのラッセル、吹雪の中でのビバーク、かじかんだ手、凍った手袋を岩に叩きつけながらの登攀、針金のように凍って硬くなったザイルに難渋した事などが思い出されます。
昔の日記から
「壁に取り付けばもうこっちのものだと思っていたが甘かった。雪と氷にまとわれた中央稜は意外に厳しくピッチはあがらない。その上にかじかんだ手、凍った手袋、アイゼンに重荷、着ぶくれときている。夏とは段違いのきつさだ。Ⅱ級、Ⅲ級といった表示のピッチグレードが最低Ⅳ級に感じられる。ビレーしている間にも寒さのためか眠気が襲ってくる。・・・」
「下降と決まった時の二人のほっとした顔。本谷の雪崩は怖いがニノ沢の奴だけ気をつければよいーーといってどうしようもないのだがーー五体満足に帰れると思ったのはこの時だったろう。・・・」
また別の日記では。
「南稜から一ノ倉尾根までの雪壁は約40m 6Pで終了。五ルンゼの直登も結構難しい。その先でビバーク。翌日はうって変わって吹雪。立って歩けず、四つん這いでやっとピークへ。4人でかたい握手。S先頭で稜線をいくがルートは判らず。偶然肩の小屋前にでる。この後もリングワンデリングしながら、西黒尾根を目指すも判らず。天神尾根を降る・・・」
最近懐かしさもあって谷川岳のことを調べていたら、「大氷壁に挑む 谷川岳・一ノ倉沢」というDVDがあり、買ってみました。
氷壁のスペシャリスト廣川健太郎氏がその仲間と2010年冬の一ノ倉沢滝沢第三スラブを登った際のドキュメンタリーでした。あの当時では第三スラブ、通称「三スラ」は伝説のクライマー森田勝が冬季初登攀を成し遂げた超難関ルートとして有名でした、というより、あんな雪崩の巣を登るなんて尋常な人のやることではないと思われていました。
その後、いろいろな人が登るようになり、ルートの情報も増えたのでしょうが、やはり危険と隣り合わせな険悪なルートであることに変わりはないでしょう。ビデオで間近にルートを見せてもらい、雪崩やシャワースノウをかいくぐりながらの氷壁の登攀は圧巻で、とても常人の近づける場所ではないと思いました。これをみたら自分らのやっていたことはほんのママゴト程度のことのように思われました。しかしながら一ノ倉沢に入っていく時の緊張感、臨場感は相通じるものを感じました。
一ノ倉沢には多くの岳人が眠っています。中には今野和義や吉尾 弘といった日本を代表するようなトップクライマーもいます。「近くて良い山」ながら一方で悪絶でいったん牙をむくと手が付けられないほどの魔の山に変身します。そこがまた海外を目指すような岳人を魅了するのでしょう。

学生から社会人になってからは、さすがに岩から遠ざかりました。それでも時に谷川岳の冬の稜線歩きもやっていました。それもいつの間にか遠のいていきました。
もう、冬は一ノ倉沢の出合いまでも行くことはありますまい。古い写真を一部残して、あとは記憶の片隅に留めながらフェードアウトしていくでしょう。

これを機会に古いアルバムとDVDで一寸蘇った若き日の谷川岳のことを書いてみました。

一ノ倉沢出合い、正面に衝立岩、向かって右にコップ状岩壁、左に滝沢を望む

中央稜基部

南稜

南稜最終ピッチ

南稜上部