私のエベレスト峰 柳沢勝輔 著

先日、地区医師会の会食の席で、友人のそが病院の林院長から最高齢でエベレストに登頂した恩師がいるとの話を伺った。中学時代の担任の先生で当時はそんなすごい先生とは知らなかったが同窓会や、講演会で登頂の話を聞き、登頂記を戴いたとのことだった。興味深く話を聞いていた所、後日彼が著書を貸してくれたので読んでみた。
 「私のエベレスト峰」   柳沢勝輔 著   しなのき書房 2008年
 著者は昭和11年生まれで、大学時代から本格的な登山を始めたが、中学校教師のかたわら国内の登山を続けた。退職後の平成19年(2007年)5月22日に71歳2ヶ月でエベレストに登頂した。その後三浦雄一郎氏などにその記録を塗り替えられたが当時としては世界最高齢での輝かしい記録だ。
 著者が本格的な登山を始めたのは、登山ブームといわれた昭和30年代である。日本山岳会が総力をあげてマナスル峰の登頂を果たし、その熱気のなかで北アルプスの冬山合宿で極地法を学んだ。しかし就職し学校勤めになると長期の登山はできなくなり次第に山から遠ざかったという。ところが60歳間際、定年まであとわずかになって6000m峰への夢が開けた。ヒマラヤに行けるのなら退職したって構わないとの気持ちが行動に動かしたのだろう。ヤラピークで意外と高所に強いとの自信を得る。長野県労山記念登山隊に参加し7000m峰のレーニン峰に挑む。しかし体調管理や、高度順応などの不慣れもあり、登頂隊から漏れてしまい登頂に失敗してしまう。しかし、著者はこの登山で高所での行動が出来たことの自信を得、また高所では仲間に頼ってはだめで自分の意志の力での行動の必要性、自己管理の必要性を学んだ。
 それから数年たち、大勢の友人が登って情報の多いカザフスタンのハンテングリ峰に挑んだ。後年エベレストでも世話になる山岳ガイドの倉岡氏と同行する。大理石の岩稜、氷雪の稜線を経て頂上に立った。著者は山に行くときには「山の風に吹かれてきます。」という言葉をよく使うという。文字通り7000mの風に吹かれたのだった。
 一旦満足したかに思われた気持ちが収まらないのが山屋の性なのだろう。3,4年がたつと今度は8000mの風に吹かれたいと思うようになったという。ハンテングリでお世話になった倉岡氏に相談しハンテングリより楽ですよ、というチョー・オユーに狙いを定め、70歳の記念登山を決意する。ところが出発直前に胃癌を宣告され、手術を余儀なくされた。術後は気持ちはあせるが、体の方は思うにまかせないので、とりあえず成田空港まで行かれればいい、ネパールやチベットへ行ってからもトレーニングはできる、というのだから尋常ではない。チョー・オユーはどっかりと白い達磨が座っているようで中腹にロックバンドが走っているものの、ほかは岩場が2,3か所見えるだけで、氷の壁というよりは、下から上まで雪面が続いているという印象であった、と。「雪の尾根や雪の壁なら頑張りさえすればどうにかなるだろう」とゆっくりながら高度順応しシーズン最後の好天を狙って登頂に成功する。ロックバンドを越えて雪原状の頂上に出ると眼前にどっしりとした青くそびえる岩山が飛び込んできた。「私は息を飲んだ。エベレスト峰だ。私は我を忘れてしばらくその光景に見とれた。・・・チョー・オユーには申し訳ないが、登頂した感激よりも、エベレスト峰に完全に心を奪われてしまっていた。」
 8000mの風に吹かれヒマラヤの一角に触れられ、心は満たされ年齢的にも一区切りつき高所登山は終わったと思い定め、著者は帰国後は日常の農作業や山仕事、社会的な活動に戻って行った。しかし、チョー・オユーの記録写真を整理しながら心はやはり遥かなエベレストから離れられなかったようだ。倉岡氏にエベレストのツアー募集のパンフレットを依頼し心を慰めていたところ、氏から締め切り後なのに「柳沢さんならいいよ」との言葉をかけられ動揺したという。どうせ登れないからやめろ、といわれるに決まっていると思い、岳友、知人には内緒で出発の朝に手紙で連絡し、成田に向かったという。春物の収穫はあきらめて秋物だけにして、大幅な減収は覚悟したが、ジャガイモだけは出発前に播種した。その日のうちにバンコクに飛び、ネパールのカトマンズ経由でチベットのラサに入った。
 以下は著者の記述に沿って日記風に記述・・・
 高度順化を兼ねてポタラ宮殿に行く。シガツェ、シガールを経て、ロンブク氷河の末端に位置する標高5200mのBC(ベースキャンプ)に入った。日本を発って14日目の4月12日であった。BCは氷河の河川敷ともいえるような所で3,400mはあるかと思えるような平らなモレーン(岩屑)の広川原である。今までの経験で腹八分目を堅持した。BCは国際色豊かで、日本人が5人、欧米人が10人、その他トレッキングの人、アメリカのテレビクルーなどであった。氷河のモレーンの道を登り下りしながら荷物運びのヤクの群れを避けつつ登った。4月22日吹雪の中を疲労困憊して夕暮れのABC(前進キャンプ)に到着する。高度6200mである。この間に高度順化に失敗したり、登山条件が整ってなくて下山を余儀なくされる人も出てくる。4月29日、7000mのC1に向かうがのどや唇の痛みが強く、ABCに引き返す。5月4日再度C1を目指す。固定ロープを頼りにしながらゆっくり進み、ノースコルにあるC1に到着する。5月7日は、登頂前の完全休養のためにBCへ下った。5月15日、1週間の休養を終えて、BCを出発した。中間キャンプまで。5月16日、ABCに入る。遭難者が3人出たことを知らされる。そのうち2人が日本人とのこと。そのうちの一人M氏は世界第二のK2に無酸素で登頂し、今回はエベレストに無酸素で登頂を狙っていたとのことだ。5月18日、本格的に登頂を目指す。C1に再度入るが、テントは傾いていて、窪んだ所は水たまりになっている。5月19日。朝日に照らされたC1からC2への登路はすべて雪稜である。見た目はスキー場の斜面の様だったが、実際は結構きつかった。他人を気遣うようなことを言うと倉岡氏は「他人のことなど心配しないで自分のことだけ考えな」といった。またボスのラッセル氏は「全力を出し切るな、70%の力を使い、残る30%は生きる力として温存しておけ。」といった。ここはもう生き延びるか、死ぬかのぎりぎりの世界なのだ。苦しみながら7800mのC2に到達した。5月20日。エベレスト峰は今朝も雪煙を飛ばしている。もう迷いはない。あの峰のてっぺんに登るのだ。この日はC3に到着する。ここは一般のチームのC2とC3の中間位の位置で、体力のないものも登れるように、一つキャンプを多く増やしてある。C2からは全員酸素を使う。5月21日。C3からC4(最終キャンプ)に入る。固定ロープを伝わって岩場を越えていく。5月22日、ついに登頂へ。出発は午前0時だが、興奮しているためか10時の予定が9時に目覚める。しかし準備に手間取り、出発間際にやっと間に合った。片方の靴下を履くのに、10分、高所靴を履く30分はかかった。出発直後からはきつい岩登りとなり、ヘッドランプの明かりを頼りに一歩ずつ登る。途中きのこ岩で酸素ボンベを確認する。暗闇のなかでも日本人隊、外人部隊、シェルパなど含めて20人程いた。徐々に夜が明け始め、中国隊が初登頂の際に掛けた梯子場に来た。梯子場を過ぎるとしばらくして雪田に出た。明るさが増し、エベレスト峰に光が当たった。みるみる白黒の姿が黄金に輝いた。チームの大部分の人たちは、長い列を作って先に行く。今の自分の体調はよく、闘争心も十分だ。ゆっくり進んで行くと前方の雪田に斃れた人が見える。キャンプでにこやかに話していたIさんの亡骸だった。8500mを越えると何人もの人が亡くなってそのままになっているというが、現実に屍に出会うとなんともいえない。いつ自分がその期になるとも限らない。しかし、負けてたまるか、と奮い立たせて前進する。頂上直下の岸壁を登り、ゆるやかな雪庇状の雪稜を一歩一歩を味わうように登る。そして
ついに頂上に到着する。頂上にはネパール側からの登頂者が大勢いる。ローツェ、マカルーもはるか下のほうにみえる。感激もそこそこに下山にかかる。北壁を見下ろしながら、恐怖と戦いながら岩壁、岩峰を下る。生還するぞ、負けるものか、と自分を奮い立たせた。
下り初めて1時間、いくつもの遺体を遣り過ごしながら進むうちに吹雪に見舞われた。C4で多少休んで、C3まで下って、もうこれ以上歩ける元気はなくまだ明るかったが一泊した。5月23日。テントが飛ばされそうな程の強風の中を下る。ゴーグルが曇って前が見えない。50歩歩いては座りこんで、というような調子でやっとC1まで降りる。ここでゆっくり休もうと思っていたらABCまで下れとの指示が来る。夕暮れのキャンプに着くと皆が広場に出迎えてくれた。ここまで下ればもう危険はなく無事生還である。5月24日。1日の休養のあとBCに下った。ボスのラッセル氏は広場にチーム全員を集め、記念すべき登頂者としてネパールの剣を授けてくれた。登頂をサポートしてくれた多くの人々に感謝しながら満ち足りた、しかし去りがたい気持ちを抱きながらエベレストを後にした。
林先生の話では柳沢先生は常日頃から1000mを越える高地で農作業に従事していて、高地に順応していたこと、前年のチョー・オユーなどの高地の準備ができていたこと、高地に強い体質などが成功の要因であると講演で話されていたという。著書を読んでみてそれに加えて日頃の継続的努力、トレーニング、一見淡々として謙虚な中に、強烈な個性と強靭な精神力がみてとれる。それで、いわば地方の無名の一登山愛好者ながらこうした大記録が打ち立てられたのだろう

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