北八つ彷徨   山口耀久 著

「八ヶ岳はいい山である。標高から言えば最高峰・赤岳は二八九九メートル、日本アルプスにつぐ高い山だ。天につきあげる岩の頂稜にはあらあらしい情熱と迫力があり、高嶺の花はゆたかに咲く。それに、中腹をおおう針葉樹林帯のみごとさと、裾野にひろがる高原の雄大さは、日本の山々でも屈指のものだ。山の姿がすっきりと美しく、登りやすいのもなによりだし、これだけすぐれた個性を持っている山はちょっとほかにはないようだ。」
 北八つ彷徨は、「岳へのいざない」の書き出しで始まる山口耀久氏の八ヶ岳の随想集だ。この本との邂逅がいつでどこだったのか今となっては定かな記憶がない。それでも珠玉のような名文がちりばめられたこの本によって八ヶ岳に誘われ、時折八つに出かけるようになったように思う。山に行かない時も、折に触れて本のページをめくれば、何かしら八ヶ岳の樹林や、土の香りが漂ってくるような気がして心がなごんだ。
 「八ヶ岳の四季」の章では山の頂稜から山麓までの山の表情、樹木、高山植物、鳥などが四季の移ろい、登山の喜びとともに鮮やかに語られている。
 「雪と風の日記」は昭和32年の年末から翌年の正月にかけて北八つの大河原峠から南八つの編笠山まで9日間に亘って縦走した記録である。当時としてはかなり大変な山行である。無雪期は穏やかな北八つが積雪期になると時に胸までのラッセルを強いられる樹林帯、歩きにくい偃松帯、ブレイカブル・クラストなど重荷での難行苦行が続く。そして猛烈な風雪、寒さの中で時折美しい冬山の姿をみせる。山から帰って左足の親指が白くロウソク色に変わったというがさぞ満足した山行だったろう。
 「雨池」は麦草峠の近くにある湖をめぐる一章である。著者は仲間の友達と天幕をかついで鉈目づたいに、また藪こぎをしながら原生林の中を雨池まで入りそこでのキャンプ生活を楽しんだ。何度も違うルートからわざわざ藪を選んで出かけている。まさに彼らの仲間だけのハイマートであったのだろう。その喜びが綴られている。当時はまともな登山道もなかったのだが、それでも観光開発の道路が延びてきて、ダンプも行きかいつつあり、開発の波を危惧している。著者が現在のスカイラインやロープウェイをみたらどう思うだろう。もう目の前の山は古き良き山ではなくなったと思うかもしれない。ただ現在の我々はそれらのお陰で楽に山奥まで行くことができるようになったのであるが。
 「落葉松峠」は北八つ・双子池のすぐ東にある峠での思い出である。著者はある年の秋の終りにその峠を訪れて印象的な情景に出会った。十月の下旬、風に運ばれて小雪が舞っていた。双子池の湖畔から峠にかけては燃えるような落葉松の紅葉であった。「熊笹の多い落葉松林の中を登っていくと、急に風が激しくなった。・・・あっと驚くようなすばやさで、いきなり風景の転調がおこなわれた。静止した落葉松林がいっせいに動いた。私たちは足を止め、息をのんだ。ゆくりなくも足を向けたその峠の上は、風と、雪と、乱れ飛ぶ落葉松林の落ち葉の、すさまじい狂乱の舞台だった。風に吹きはらわれる金いろの落葉松の葉が、舞い狂う雪と一緒に、いちめんに空を飛び散っていた。・・・秋は終わった。何といういさぎよい凄まじい訣れ。私はとり残されたような気がした。」著者は突然の秋の終りの情景に息をのむ。そして翌年の5月、ふたたび峠を訪れる。「峠の落葉松はまだその黒い枝先につぶつぶのこまかい芽をつけているにすぎなかったが、そのあかるい芽ぶきの色は、まぎれもない春のそれであった。・・・何かひどく勝手がちがう記憶のもどかしさであった。いったいあれは何だったのだろう。・・・自然はあらゆる言葉を語っているようにも見えるし、またどんな言葉も語らないようにもみえる。しかし、いま眼の前にある自然は、むしろこう言っているようだ。俺はいつもあるがままの姿で、ここにこうしてあるだけなのだ、と。」落葉松峠をめっぐての自然のいとなみがいきいきと描かれている。
 「富士見高原の思い出」は著者もあとがきに述べているように後で書き加えられた一小節である。「自分の一時期のsouvenirとしてじぶんのために書いておきたいと思いました。直接登山に関係はありませんが、おなじ八ヶ岳につながる思い出として、このような本にいれるのもあるいは許されることでありましょうか。」著者は昭和25年3月青春ただ中で肺結核の療養のために富士見高原のサナトリウムに入院した。「富士見の駅に降りて、療養所に通じる道の陸橋から八ヶ岳を仰ぎ見たときの気持ちを、私はいまでも覚えている。
肌寒い高曇りの日で、稜線につもった雪にも輝きはなかったが、何カ月ぶりかで見る八ヶ岳はいかにも高かった。これが自分の足で登った山かと思われるくらい高かった。あれが編笠山、あれが権現岳、あれが西岳、あれが赤岳、あれが阿弥陀岳・・・と、ところどころ雲を呼んでいる峰のひとつひとつに胸が痛くなるような気持で視線を注ぎながら、私はおそらくあれらの頂に立てる力は自分にはもう戻ってこないだろうと思った。そして、そう思いながらも不思議とその予想にそれほどの悲しみはなかった。失望しないためには不確かな期待を用意しないほうがいいという習慣を、私はいつのまにか身につけていた。」
青春の心血を注いで登った山を見ながら、当時としては不治に近く死の宣告とも言えるような病で入院した心持ちはいかようであったろう。満足な治療薬もない中で気胸療法、安静療法を続ける他なかった。病状もはかばかしくなく、あまつさえ腎結核まで併発してしまう。7月かろうじて手術が奏功して、それを契機に徐々に軽快していく。周辺への散歩を始めると共に、近くの分水荘に居住する詩人の尾崎喜八の所へ通い出し、将来の伴侶となる川上久子さんとも知り合い精神的にも回復してゆく。春から夏にかけて博物学の野外授業ともいえる遠足などや蛍狩りなど次第に行動範囲も拡がった。久子さんと鉄橋やトンネルを歩き、途中で汽車とすれ違うスリルを楽しんだという。ある日、二人でトンネルの窪みに身を潜めていて汽車をやり過ごそうとしたが、汽車が近づき急に怖くなった著者は独りで逃げ出し、途中であわてて引き返して彼女の手を引っ張って危うく逃げきった、と。「一人で逃げ出したというので彼女はそれから私を信用しなくなった。・・・そんなこともあったけれど、その頃から私と久子のあいだはだいぶ接近していて、・・・」など男女の機微を伺わせ微笑ましい。翌年の夏も過ぎ去り徐々に快癒し、やがて退院が近づいてきた。「十一月にはいってからも毎日美しい秋晴れの日がつづいた。
その年は、まだ九月の末だというのに八ヶ岳に一度新雪があったが、それも二日ぐらいで消えると、あとはずっと雪を見なかった。おだやかに澄んだ晩秋の空に、八ヶ岳は毎日その全容を見せて、ひとつの季節のおわりをしずかにまどろんでいるように見えた。・・・
十一月二十九日。この日を私は玄関で在院の人たちに送られながら、一年と八ヶ月をすごした思い出の療養所を後にした。八ヶ岳は白い姿を見せていたが、荒れぎみの空から小雪がちらついてくる寒い日だった。・・・
駅に着くと、尾崎先生と奥さんが先に来て待っておられた。・・・
先生は「今朝つくって今朝書いたものだから」と言われて、新聞紙に包んだ色紙をくださった。中をあけると、それにはさわやかな先生の字で
      風花をよすがに今朝の別れかな
と書いてあった。

富士見高原の思い出を読むたびに、いいしれぬ感慨を覚える。当時はまだ不治の病であった肺結核に侵され、しかも肺のみならず腎臓までも侵されてしまった身でありながら、また山に戻っている。獨標登高会をリードして、後年八ヶ岳研究も上梓している。本当に山を愛している人なのだろう。そして、書かれたものは静かに心を打つ。山の詩人なのだろう。
この本に魅かれて、八ヶ岳に通った。
もう、随分御無沙汰してしまっているけれども、北八の池たち、苔むした森林帯、本沢、にゅう、また荒々しい横岳から赤岳の稜線や大同心、小同心、裾野の高原、稲子湯など思いつくままにも心ふるえる思い出が重なって甦ってくる。
戦後の登山ブームの頃の雰囲気も心惹かれるが、一方でいつまでも新鮮な気持ちにさせられる僕にとっては不思議な本なのだ。

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