アルプスの三つの壁 

グリンデルワルトからアイガー

アルプスの三つの壁  アンデレル・ヘックマイヤー著  長越 茂雄 訳
アルプスの3大北壁といえば、マッターホルン、アイガー、グランド・ジョラスであまりにも有名であるが、これらは1930年代に立て続けに初登攀された。幾多の人々がこれに関わっていて、栄光と悲劇のドラマが繰り広げられたが、アンデレル・ヘックマイヤーもその中の一人であり、中心的な人物であろう。  その当時の生々しいドラマを語ってくれているのがこの本だが、特に彼がザイルのトップとして始終リードして勝ち得たアイガーの初登攀の記録は圧巻である。ドイツ人である彼は、これらの課題が全てミュンヘン出の登山家の仲間達によって解決されたと述べているが、これはやや贔屓の引き倒しのようである。しかしながら、当時のドイツの若者のエネルギーは大変なものがあったらしい。  彼も「1928年からこのかた、大恐慌による失業がとりわけかれら若者を襲った。かくて、行動への渇望はおさえがたく、彼らは山に向うことになったのだ。」と述べている。一説にはナチス・ドイツがこれらの栄光に対し、金メダルの授与で報いるとの話があり後押ししたとの言もあるが、この本には触れていないし、変に勘ぐることは彼らの山への純粋な情熱に対して失礼かもしれない、しかしそういった時代背景も影響したのかもしれない。 1931年トニーとフランツ・シュミット兄弟がマッターホルン北壁を征服した。彼らもヘックマイヤーの仲間だが秘密にしていたためグランド・ジョラスの壁への挑戦中に聞いて驚愕したと述べている。 数度のグランド・ジョラスの試登も悪天候に阻まれて頓挫していた。 1935年になり、マックス・セドルマイヤーとカール・メーリンガーがアイガー北壁へのアタックを試みたが、第3の雪壁地帯で悪天候のため遭難死してしまった(後年彼らの終焉の地は死のビバークと呼ばれるようになった)。この事件以降ヘックマイヤーの気持ちはアイガーヴァントへ集中していく。 アイガー北壁は3つの部分に分かれている。基部は2200mから2800mで、第2の部分は3400mまでのび、ここに3つの雪壁地帯がある。最後はほぼ垂直に近い壁で3974mの頂上近くまで及んでいるという(この中に蜘蛛と呼ばれる雪壁帯がはめ込まれている)。 翌年は前年の悲劇にもかかわらず、壁の下には複数のパーティーが集合していた。ドイツ人のアンドレアス・ヒンターシュトイサーとトニー・クルツ、オーストリア人のエディー・ライナーとヴィリー・アンゲラーであった。彼らは別々に登り始めたが、壁の途中で一隊に合体した。氷雪技術のない彼らの進みは遅々として、しかもアンゲラーは落石で頭部を負傷した。2晩のビバークの後、退却を始めた。落石の危険地帯を経ながら下降しずぶぬれの3晩目のビバークを強いられた。第1雪田まで下降したが、垂壁の赤い壁に行く手を遮られた。登りにトラバースに使ったザイルを回収したため(後にヒンターシュトイサー・トラバースと呼ばれる)トラバースルートも戻れなくなってしまった。アイガー鉄道の坑道のトンネルすぐ近く救助隊の声の届く所まで下降しながら3名は落石に打たれ亡くなった。唯一壁に張り付いて生き残ったトニーは嵐の夜を生き延びて、救助隊からの援助を受けわずか3mの所まで近づいた。しかしながら凍った手で、さらには歯でもザイルの結び目がカラビナを通らず、もがいているうちに雪と突風にあおられて息絶えた。ガイド達は「結び目を通せ。そうすりゃ助かるんだぞ」と励まし続けたという。 1938年は問題の解決の年となった。この年もルードヴィッヒ・フェルクとヘックマイヤーのパーティーとフリッツ・カスパレクとハインリッヒ・ハーラーのオーストリアのパーティーが別々に北壁に取り着いた。6名もが集中した壁から一旦麓に戻ったヘックマイヤーらは先行者の歩みが遅く、天候も回復しそうなので急ぎ再び追いかけた。12本爪アイゼンを履き、氷雪技術に長けたヘックマイヤーは第3雪田の手前で一日足らずで追いついた。先行パーティーの作った足場のおかげだ。追い抜こうとした彼だったが、お人よしのフェルクは一つのザイルパーティーになることを提案した。荷物は分担できたし、オーストリアパーティーは下降ルートを知っていた。第3雪田を左に行き、傾斜路(ランペ)に取り着いた。ランペは大きなチムニー状のクーロアールだった。そこでビバークした。高度3400mだった。その上方は垂直のチムニーになっており、出口は氷のオーバーハングで覆われていた。空身になったヘックマイヤーはそれに挑み、ハングで宙ぶらりんになりながらも何とかそこを突破した。このピッチが登攀の最難関だったと述懐している。そこからザイルを10回以上伸ばして2時間以上かけて右方へ岩屑の細いバンドを辿って(神々のトラバース)「蜘蛛」に至った。蜘蛛で表層雪崩に会い、カスパレクは手に負傷した。その上のクラック帯で再びビバークした。この時の様相をクライネ・シャイデックの新聞記者がレポートしている。「4時半、我々の頭上に水の竜巻が襲いかかった。皆の恐怖の叫び声が起こった。壁をみよ!巨大な滝が壁の全体を覆い落下している。泡立つ水煙をたてた激流がクーロワールに溢れた。・・・彼らは果たして耐えられるだろうか?」。ヘックマイヤーはこの上のクーロワールのオーバーハングで墜落しながらも正午に最後のクーロワールを抜け北壁を征服した。1時間後に最後のカスパレクも抜け出した。しかし暴風雪は次第に激しくなり頂上に到達したのは午後3時半であった。雪と氷の張り着いた西稜を下ったが、ハーラーらは数日前に下ってルートを知っていた。ほとんどパーティーのラストを務め、神経も体力も消耗していないハーラーが指揮をとった。壁で墜落し、足を痛め、消耗したヘックマイヤーは後に従った。麓に下りるとこの初登攀に大騒ぎになっていた。 彼らはこの登攀に引き続いて長年の懸案であったグランド・ジョラスの北壁に向かう予定であったが、イタリアの新鋭のリカルド・カシンらが彼らのアイガーの成功から数日後にジョラス北壁を征服した。(偉大なカシンの物語についてはいずれ書こうと思います) ヘックマイヤーも1951年グランド・ジョラス北壁の第8登を成し遂げた。アイガーを征服しても、その困難さはアイガーをも凌ぐといわれるグランド・ジョラスは常に念頭にあった。そしてその制覇には悪天のために4日間かかった。やはりジョラスは最高度の困難さ、試練を彼らに与えた。  
こうしてアイガー北壁は征服されたが、日本人の登場は1965年まで待たなければならなかった。そして残念なことに栄光となるべき高田光政の日本人初登攀はザイルパートナー渡部恒明の墜死という悲劇の代償をもってなされた。山など知らなかった小生でも当時の新聞記事の記憶があるほど社会に衝撃を与えた事件だった。その顛末は「登頂あと300」という高田光政の著書に詳述されている。
たった1週間前に、芳野満彦と共に日本人でマッターホルン初登攀という成果を引っ提げてやってきた渡辺恒明は高田光政とアイガーに挑んだ。(芳野はマッターホルンで足を痛めサポートにまわった。)
その年の夏は天候不順で、普通登山靴で登る所も氷が張り、最初からアイゼンをつけっぱなしだったという。順調に下部岩壁を登り、ヒンターシュトイサー・トラバースもこなした。しばらく登り「ツバメの巣」でビバークした。氷雪をカッティングしても、やっと2人腰を下ろせる位の場所だった。翌日は氷の第一雪田、氷の管、第二雪田と進んだ。例年になく氷雪が多く困難だった。渡部は昨年にすでにここまで登り、敗退していた。今度こそはと闘志は漲っていた。午後2時25分、死のビバーク到着。第3雪田を経てランペのカミーンでビバーク。途中でかぶった流水のためずぶ濡れ、雷のあと雪が降り零下10度の寒気に苛まれる。翌日、北壁は真っ白い雪に覆われていた。進退を迷ったが頂上まであと570m、登攀続行を決めた。ランペの上部は6級の困難さを持つが、氷雪に武装されてさらに最悪の状態になっていた。ようやくそこを抜けて神々のトラバースにさしかかったが、やはり雪に埋まって通常のルートはとれず、上部をトラバースし始めた。ここで高田がスリップし30m落下した。肋骨、腰を強打してビバークを余儀なくされた。撤退か、頂上への生還に賭けるかぎりぎりの選択を迫られたが、トップを渡部が務めて高田が後続していくことに決めた。硬い氷雪の上に積もった雪を払いながら蜘蛛を登った。トップの渡部は次第に疲労の色を深めていた。足場の氷が欠けて、高田にぶつかりながら10数mスリップした。最後の難場の頂上への割れ目に達した。カミーンのリングハーケンのある場所で直登するか、左にトラバースするかで2人の意見が割れた。渡部はハラーの「白い蜘蛛」の切り抜きを見ながらこれはミスプリントだとして左にトラバースを始めた。高田は直登が正しいと反対意見を述べたが、トップはトラバースしていった。岩の状態が悪いといいながらトップはオーバーバングの向こう側に消えていった。しばらくして「落ちる」という声と共に渡部が墜落した。にぎっていたザイルに電流のような衝撃が走り、ザイルがピーンと張った。しばらく何の応答もなかったが、必死の思いで3m位ザイルをたぐりよせると渡部が岩場に取り着いたらしく重みが軽くなり、姿が見えてきた、岩場の割れ目に身を横たえた。
時計を見ると午後5時だった。多分突出した岩場でバウンドして、一呼吸あって雪の斜面を滑落したので、ザイルを手繰り寄せ、自分も引き込まれずに止めることができたのだろう、と思われた。渡部は呻くような声で「ここは滝谷か」と聞いてきた。多分意識も朦朧としているのだろう。ザイルは1本しかない。発見されるまでここで待つか、一刻も早く下山して救助を求めるか、判断を迫られた。時間は6時を過ぎた。日没まであと2時間。救助を求めて必死の単独登攀に賭けることにした。「おーい、渡部くん。2日待ってくれ」「2日は持たない」そう返事があったがもう決断しなければならない、コンロ、燃料、食料、ビバーク用の荷物を全て残して補助ザイルで下ろした。彼は何も言わなかったが、下がってきた荷物を手元に置くのが見えた。「いいか、そこから決して動くな」と言い残して北壁に向かった。装備はアイスバイル、アイスメス、ハンマーをと補助ザイル1本のみだった。もう自分の運命に賭けるしかないと思った。ただ、国内でも単独登攀の経験があり、元々単独でのアイガー登攀を目指してきた自信のみが支えだった。脆い岩くずの急斜面を登り、屋根のような岩の脆い凸面にぶつかった。確保の手段もなく、手と足しか頼るものはなかった。落ちれば即、死。しかし、そこしか行く手はなかった。必死で越えて氷雪の岩を登り、午後8時過ぎに稜線に達した。ミッテルレギ山稜を登った。暗くなった岩稜で懐中電灯のスイッチを入れたが、なんと電気がつかなかった。一瞬ビバークを考えたが、一刻も待てない友のことを思いだした。雪あかりと、両手両足の感覚でなんとか行動できるはずだ、と思い直し一歩一歩進み9時過ぎにピークに立った。すぐさま西壁を降り始めた。以前偵察で登っていたのが手助けになった。岩に前向きになりながら、手探り、足場を探りながらそろそろと降りていった。睡魔に襲われながら、極度の興奮状態にあった。朦朧としてクレバスを避けながらふらつきながら降りていった。突然明るい光が前方に現れた。アイガーグレッチャー駅だった。3時半、いくら大声を張り上げても誰も出てこなかった。アイガーグレッチャーホテルのドアをどんどん叩いたが誰も応答がなかった。夢遊病者みたいに次の駅まで歩いた。クライネシャイデックホテルまで歩いてドアを大きく叩いたが、返答はなかった。さらに1時間程歩き日本人の登山隊が泊まっているアルピグレンホテルにたどり着き遭難を告げた。5時半だった。地元の救助隊が編成されたが悪天ですぐには動けなかった。1日たち、翌日アイガー北壁の基部に横たわって死んでいる渡部が発見された。彼は自分の確保を外して動きだしたらしい。登ろうとしたのか、もがいて間違って墜落したのかわからない。
後で、高田は現地や日本の報道陣からいろいろ質問され、彼の行動に批判的な意見もあったという。しかし、その行動をつぶさにみれば賞賛されることはあっても批難されることはないと思う。ただ、2人の登攀続行の判断には批判もあるかもしれない。
その後も幾多の栄光と悲劇の舞台となったアイガー北壁は現代においてもマッターホルンと共に最も日本で最も有名なアルプスの岩壁であり続けている。
アイガー北壁
アイガー北壁

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