アルプス登攀記 ウインパー 著

エドワード・ウインパー。
1840年、ロンドンに生まれた。父の画家としての職業を踏襲して、挿絵画家の道を歩んだが1860年イギリス山岳会の登山紀行集の挿絵の仕事を依頼されたことをきっかけにヨーロッパアルプスに出発した。それまでは登山は素人であったが、アルプスに魅了され繰り返しアルプス登山を行った。そして念願のマッターホルンに7度の失敗を乗り越えて1865年に初登頂し、その下山時に同行者が墜死するという悲劇はあまりに有名である。アルプス登攀記(SCRAMBLES AMONGST THE ALPS)はその間の紀行、論考をまとめた本で、最後に栄光と悲劇の物語のクライマックスを迎えて劇的に終わっている。
1871年に初版本が発行されたが、1900年まで加筆、改定を繰り返している。日本語版は1936年自身も登山家である浦松佐美太郎によって訳出された。
ウインパーが述べているように、「私は登山を、スポーツとして、この本のなかで書いたのであって、それ以外のことは何も考えていない。これらの登山によって与えられた楽しさは、それを他の人に伝えることは不可能である。アルプスの山々の素晴らしさは、どんな名文豪でも文章に書き現わすことはできなかった。これからも、できないことだろうと思う。大文豪といわれる人の書いた詳細にわたる叙述も、全く違った印象を読者に与えるにしか過ぎないーーおそらく読者は壮大な風景を、心のなかに作りだすかもしれないが、それでもなお現実の山の姿に対しては、まことに貧弱なものにすぎないのである。」
フランスのドフィネ地方のモン・ペルヴー登山から次々へ高山に登り、未知の世界へ、マッターホルンへと駆り立てられていった衝動を述べながら、また画家としての詳細な描写をしながらもなおかつ読者へ伝えきれないもどかしさを述べている。確かに実際に経験しなくてはその感動は分からない。百聞は一見に如かず、だ。文章を読んでいても現場のイメージはわからない。ただ、今はインターネットによる写真があり、グーグル・アースなどの情報があるので、読みながら参照すればいくらかは実像を感じ取る補助にはなるかもしれない。
 第1回目のマッターホルンへの試登は、1861年に南面のイタリア側から行われた。というのは、ツェルマットのある北面側から眺めた時、切り立った絶壁のようで、南面からの眺めはピラミッドが幾重にも積み重なったように見え、取り着き易いイメージがあり、初期の試みは皆後者からであった。ブルーイユの村からリオンのコルを目指し、南西山稜にとり着いたが、チムニーに行く手を阻まれた。
翌1862年も同じルートを挑んだが、天候のためや、人夫の不調のためまた敗退した。それで、単独でまた登りなおし、チムニーを越えて、大きな岩塔まで登った。ここからは、岩は逆層がきつくなり、ボロボロな岩質になっていたため退却した。下降に便利なように鉄のフックや懸垂下降用の鉄の輪などを利用している。下降に邪魔な氷斧をテントに残してきたため、氷の斜面で滑落してしまった。岩壁から岩壁へと空中を飛ばされながら、絶壁のすぐ上の岩溝のくびれたところに引っ掛かり、止まったという。20か所以上の傷口から血が吹き出、一旦気絶しながらもブルーイユまでたどり着いた。1週間後には性懲りもなく同じ岩塔まで戻ってきている。今回はベテランガイドのカレルを伴って。しかし天候が急変し吹雪になったため下山した。
カレルはどうも自分がイタリアからの初登頂を狙っているようで、協力的ではないために別のガイドを伴って前回の最高点を通過して登っていったが垂壁に阻まれてしまった。
1863年8月もコル・デ・リオンから挑んだ。またしても吹雪、雷鳴に苦しめられて頂上近くの「肩」を手前にして退却した。この間麓は快晴でマッターホルンにだけ雲がかかっていただけだったという。
1865年はいままでの戦略を大きくかえた。その最大の理由はマッターホルンの岩層が西南西の方向へ傾斜していることが分かったことである。すなわち南西稜から登るとまるで屋根瓦を登って行くような逆層の岩になり、ヘルンリ綾、東壁からだとその逆の順層になるということである。また東壁は見た目の急峻さとは異なって40度を越えていないことが分かった。それに今までの気象障害、尾根筋よりも岩壁、雪壁を登ることを好むようになったことなどを理由としてあげている。
6月末にクローら山案内人4人を連れて南東山稜から東壁をめざしたが、岩溝の落石のために一旦撤退した。7月にカレルに東壁からの登攀を打診したが、はっきりしない返事だったが了解をとりつけた。しかし、カレル等はジョルダーノ氏率いるイタリア隊とすでにマッターホルン登攀の予定を組んでおり、ウインパーは出し抜かれた形になってしまった。
無念さに歯ぎしりした彼はなんとか挽回する策を考えた。早くイタリア側のブルーイユからツェルマットに戻り、ガイドを雇うということだ。若い英国人(ダグラス卿)がペーテル・タウクワルダーを連れてツェルマットからやってきた。また老タウクワルダーはヘルンリの上まで登り、登頂への可能性を見出した、と聞いた。そこで彼はペーテル親子を雇い彼らと登攀することにした。ダグラス卿も参加を希望したので誘った。ツェルマットに着くとシャモニに帰ったとばかり思った信頼するガイドクローとホテル・モンテローザの前でばったり出会った。彼はハドソン氏とマッターホルンに登る予定だという。友人のハドー氏も一緒だという。話し合いの結果、二つの登山隊が、同じ目的を持って、同じ時に一つの山に登るのは、どうも面白くないという意見で一致した。それでウインパーがハドソン氏を彼の仲間に誘った。彼は寝床の中で様々な不思議な因縁が去来して仕方がなかった、という。 
 こうしてイタリア隊に対抗するべく急造の登山隊が結成されたのである。
7月13日午前5時半にツェルマットを出発した。雲一つない晴天だったという。ヘルンリ稜から東壁に向かった。思ったよりも易しい岩場だった。12時前にテントを張った。クローと小ペーテルが明日のためにルート工作に向かったが、東壁の随分高い所まで登っていった。3時過ぎに戻ってきた2人は「難しい所は一つもありません。登ろうと思えば今日中にでも登って戻って来れたでしょう。」といった。14日夜明け前に出発。荷物がないので楽だった。難しい所も左右に動けば登れた。大部分はザイルも必要としなかった。しばらく登ると垂壁に行く手を阻まれたので北東山稜から北壁側にまわり、岩と氷のミックス壁を登った。難しかったが40度を越えなかった。しっかりした登山家なら安全に登れる所だった。ハドソン氏は一度の手助けも必要としなかった。しか
しハドー氏は絶えず手助けが必要だった。午後1時40分ウインパーとクローはほぼ同時に頂上に駆け上がった。イタリア隊はずっと下の方にいた。石を投げて教えてやると彼らは退却を始めた。1時間程頂上にいて下山を始めた。ザイルの順番についてハドソンと相談した。クローを先頭に立て、次いでハドーをおいた。山案内と遜色のないハドソンは3番手を選んだ。次にダグラス卿を選んだ。その後に最も強力な老ペーテルを立てた。ハドソンには登った時の最後の難所ではザイルを岩に結びそれを握って降りるように指示した。ウインパーは頂上で写生をしたり、名前を瓶に入れて残す作業のため皆から少し遅れて下り始めた。小ペーテルとザイルを組み、難しい岩場で皆に追いついた。皆一歩ずつ慎重に下っていたが補助ロープは使っていなかった。3時頃ダグラス卿にたのまれて老ペーテルともザイルを結んだ。クローが両手でハドーの両足を支えて足場を確保していた。そして、自分が下るために後ろ向きになった時にハドーが足を滑らせクローの背中にぶつかり、突き落としたというのだ。ただウインパーの所からは岩が邪魔して一部分しか見えなかったという。そして、次々に叫び声を上げながら滑り落ちて行った。老ペーテルとウインパーにも衝撃がきてザイルはピーンと張ったが、ダグラス卿と老ペーテルの間でザイルは切れてしまった。なんと彼は補助ロープを使っていたのだった。すっかり気力をうしなったペーテル親子を叱咤激励しながら、補助ロープを岩に結びつけながら下山した。
こうして、栄光の初登攀から一転して悲劇へと変じたマッターホルンの物語は終焉を迎えた。彼もペーテルもスイスの法廷で裁判にかけられ、最終的には無罪になったが、種々の非難にさらされた。彼もこの時を境にアルプスから姿を消す。
アルプス登攀記はもちろんマッターホルン初登攀に至る記録だが、それ以外にエクランやグランド・ジョラスやエギーユ・ベルトの初登攀などの素晴らしい記録も同時に収められている。ウインパーは仕事に対しては注意深く、熱心で徹底的に物事を追求する性格の人であったという。注意深い観察眼は植物学、地質学にも及び、登山用具の改良、発展にも寄与したという。また精巧なアルプスの描写はまだ写真の発達していなかった時期にアルプスの実像を伝えたろう。これらの努力、性格がこの困難な初登攀を成し遂げる元になっていたのだろう。
この本のなかには、鉄道トンネル工事の詳細な記述や、氷河の成り立ちへの記述などその観察眼の鋭さや緻密さが垣間見られる。しかし、氷河の学説に対し、当時の大家を激しく非難している記事や、当時のアルプスの人々の貧しさ、汚さを述べている点、アオスタ谷に多くみられた甲状腺腫(クレチン病)による?精神遅延者を根絶する試みに対する今日では不適切ともとれる記述などやや温厚さを欠く性格も垣間見られるようだ。しかし、友人たちの追憶の言葉によれば「他人にお世辞を言わず、思うことをはっきりと言う性格であり、また積極的に人との交際を求めることもしなかったために誤解されることが多かったが、彼は温かい心の持主で、心をゆるした友人との間では、よき話相手であり、心置きなく付き合える人柄であった。また話題も豊富で、独特の鋭い皮肉な観察眼ももっていた」という。
アルプスを去った彼はその後、グリーンランド探検、南米のチンボラソ初登攀、カナディアンロッキー初登攀など精力的に活動している。
年老いた彼はかつての青春の日々を追憶すべく、ツェルマット、シャモニと旅を続け、シャモニの宿で客死した。最後は部屋に鍵をかけ医者の治療を拒否して逝ったという。いまは静かにシャモニの墓地に眠っている。
アルプス登攀記はウインパーが山に目覚め、マッターホルンを初登攀し、アルプスを去るまでのたかだか6年間の個人的な手記である。それでいながら、意識したかどうかはともかく、この間彼はアルプス登山史の中心にいて最大の偉業を成し遂げた。この時期はアルプス登山史の黄金期の最終開花期でもあった。モンブランを始め幾多のアルプスの高山が制覇されていった当時、最後に残る難攻不落の山がマッターホルンだったのである。
彼の詳細な、また時として歯に衣を着せぬ報告は今となっては却って第一級の歴史的な資料となっている。この本を読んで、山への、アルプスへの憧れを掻き立てられ、登山家として成長していった多くの若者がいるという。あの時期の粗末な装備で氷の斜面を登下降したりシュルンドを飛び越したりなど臨場感のある記述を読むと、今も手に汗を握る程である。山好きの人には堪えられない本だといえる。

最後に彼が一番読者に伝えたかったであろう言葉でこの物語を締めくくりたい。
「そして、あの最後の悲しい記憶が、私のまわりに漂いつづけている。流れていく霧のように日の光をさえぎり、楽しかった思い出をさえ凍らせてしまう。言葉では言い尽くせないほど大きな喜びも数多くあった。それとともに、思いだしても苦しくなる悲しみもあった。これら一切のことを顧みてもなお私は、山へ登りたいと思うなら、登りなさいと言いたい。ただしかし、勇気と力だけがあっても、慎重さを欠いていたら、それは無に等しいということを忘れないでいて欲しい。そしてまた、一瞬の不注意が、一生の幸福を破滅に陥れるものであることも、忘れないで欲しい。何ごとも、あわててやってはならない。一歩一歩をしっかりと踏みしめ、常に最初から、終りが、どんなことになるかを、よく考えて行動して欲しい。」

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