谷川岳一ノ倉沢

先日山岳雑誌岳人の頁を何の気なしにめくっていると「一ノ倉沢衝立岩グリズリー+コンドル」という登山クロニクルの記事が目に止まりました。
 谷川岳一ノ倉沢衝立岩正面壁といえば登攀不可能として長らく岩登りを目指す岳人の憧れのまととなった岩壁でした。人工登攀のテクニックを駆使して初めて登られたのが1959年8月のことでした。その中の代表的ともいえる雲稜第1ルートとダイレクトカンテルートのフリークライミングの報告でした。
あのオーバーハングの連続するルートをオールフリーで登るなどは小生の想像を絶する行為なので、驚き以外の何のコメントもありませんが、写真や登攀ルート図などを見ているうちにかつて青春の一時期岩登りに血道をあげていた頃の甘酸っぱい思いが甦ってきました。
70年代の頃は街の山岳会が盛んで、鉄の時代、スーパーアルピニズムの時代といわれて人工登攀が華やかな頃でした。
小生も20代の一時期谷川岳に入れ込んだ頃がありました。その中でも一ノ倉沢の思い出は特別のものです。

一ノ倉沢は谷川岳を代表する険悪な沢というか、その奥にすり鉢を縦に断ち切ったようなかたちに屹立する岩壁群を抱えています。その出会いに立つと正面に衝立岩が他を睥睨するように聳えています。
 ある時、衝立正面壁を登るべくクラブのパートナーとテールリッジを登って基部まで行きました。その日は台風が近づいていましたが、まだ曇り空で風もありませんでした。しばしの思案の後、壁に取りつきました。冷静に考えれば初めての衝立でそんな日に登るのは無謀でした。登るに連れて雨が降り出し、風も出てきてザイルがほとんど真横に流されていたことを記憶しています。撤退するにもいくつかハングを越えてしまって上に抜けた方が易しい状況でした。
アクシデントは最後の洞穴ハングで起きました。多分相当疲れて消耗していたのだと思います。オーバーハングは出口を抜け出るのが一番骨が折れます。鐙に乗って上を見ると赤いシュリンゲ(細縄)がぶら下がっているのが見えました。これにつかまって体を引き上げればもうハングを乗っ越せる、と引っ張ったとたんにブチッときれて真っ逆さまに墜落してしまいました。冷静に考えれば残置シュリンゲに体重をかけるなどあってはならない初歩的なミスです。疲れ果てて甘い誘惑にかられたのでしょう。ジッヘルしていたセカンドは壁にしたたかぶつけられたようでしたが、小生はハングの頂点からの落下だったので空中を飛び、滑り台のような下の斜面にぶつかっただけで怪我はありませんでした。しかし、ショックは大きくトップは替わってもらいました。どうやって上まであがったかよく覚えていません。ただ、ほうほうの体で雨の中北陵を懸垂下降しました。懸垂下降器の間から泥水がしぶきのように噴出していたのを覚えています。
 また、ある時はダイレクトカンテの垂壁を直上している時に、鐙をかけたハーケンがちぎれて墜落してしまいました。この時ルートを見失いがちになって曲がったハーケンにカラビナをかけてしまいました。やはり余裕がなかったのでしょう。鐙に体重をかけた時にハーケンが途中から千切れて中のジュラルミン色の銀色が拡がって鉄が裂けていくのがいまだに目に焼き付いています。ほんの2、3秒の出来事でしたがその絶望的な時間は忘れようもありません。この時も自分は空中を飛んで、怪我一つありませんでしたが、パートナーは握っていたザイルが滑り、やけどをして指の肉をごっそり持っていかれてしまいました。
 衝立岩はよくよく因縁のあるところらしく、後日リベンジに臨んだダイレクトカンテで衝立岩正面の上部から大音響とともに落石がありました。人の体程もあろうかという岩が崩落し、なんとその後から登攀者も一緒に落ちてきました。ザイルが一杯に伸びきって一瞬、止まったかに見えたその直後にそのザイルに引っ張られるかのようにもう一人の確保者も空中に投げ出されてしまいました。2人は弧を描くかのようにして墜落していってしまいました。一瞬の出来事でした。実はその日は偶然クラブの若手が衝立岩を狙っていて、正面壁に挑んでいました。つい今しがた基部で別れたばかりで彼らが墜ちたのかもしれないと気が動転しました。ダイレクトカンテ終了点から急ぎ下降し、衝立スラブをひたすら駆け上りました。遭難者はクラブの仲間ではありませんでしたが、先程まで元気にしていた人の無残な姿に愕然とし、ひたすら合掌するしかありませんでした。
 一の沢も意外と悪相でした。草付きというか泥壁で掴んでも掴んでもずるずるすべり、そのまま沢床まで滑り台のように墜ちたことがありました。その後も滝口で透明な苔に気付かず滑り落ち、大の字になりましたが、偶然靴のコバが襞のような岩棚に引っ掛かり墜落せずに済みました。
 コップの広場(といっても斜面ですが)では浮石に乗ってスリップするし、左岩壁ルートではどろ壁でスリップするも、なぜが岩に挟まって墜落を免れました。
 こうやって思い起こすと、怪我もせずに無事で済んだのがむしろ不思議な位です。上記の一つでも一寸間違えば土合の慰霊塔の仲間入りをしていたかもしれません。こうもあちこちで墜ちたのは実力的に劣っていたのかもしれません。
 でも20代のひと頃は谷川岳に魅せられていてその魔力に引き寄せられていたのでしょう。冬の一ノ倉沢にまで出かけていました。滝沢からの雪崩をかいくぐりながら何度かテールリッジを行き来したものでした。

岩から遠ざかってから数十年もたち、岩登りの様相もすっかり変わってきてしまいました。当時新しかったものは逆に古くなり、今時どた靴に鐙など持ち出して来たら周りから笑われるか顰蹙をかうかもしれません。先日、街のクライミングジムに行き、フリークライミングのまねごとをしたらスリップして肩を脱臼しそうになりました。まさに年寄りの冷や水でした。
 若い頃に岩登りをした経験が何かの役に立っていることはまずありません。しかし、一度しかない人生に深い彩を与えてくれたのだろうと思います。
 もうザイルのトップを務める技量も体力もありません。しかし、すこし頑張ってガイドに引っ張り上げてもらえたらな、などと夢物語のように思ったものでした。